「植民地責任」論

「植民地責任」論

この問題を避けて近現代史そして現在を語ることはできない。文明化・近代化の名のもとに、大国がほしいままにした地域や人々の暮らし。それが引き起こした戦争や暴力、差別と貧困、そして分裂。今に続く“責任と応答をめぐる問題群”を歴史家たちが捉えかえす──中野は「『植民地責任』論と米国社会―抗議・承認・生存戦略―」を寄稿させていただきました。
<本文から>
アメリカン・ドリームを語るオバマの演説が魔法のように聞こえるのは、米国社会がすぐれて個人に分節化した問題解決を促す市民権構造によって特徴づけられているからである。米国市民権構造に包摂した人々に広く開かれた同化主義の門戸は、その回路を通じて集団の運命と集団の権利から個人の運命と個人の権利を追及することで「アメリカ人になってゆく」キャリアパスを提供するものなのだ。しかし分節化した個人、分節化した集団は、適応することはできても対象を変化させることはできない。たとえば移民は市民権を取得するために戦争に従軍するというかたちで、米国の戦争を利用することはできても、戦争をやめさせることはできない。それは個人だけでなく、ひとつの「植民地化された」民族集団だけの力でも無理な話であろう。これらの人々が、米国に包摂され、排除され、定義された国民国家と国民として形成されてきた過去を乗り越え、米国そのものを変化させることはできないのだろうか。結局そこから見えてくるものは「マイノリティの連帯」によってアメリカを変え、アメリカの所有権を権力=中枢から奪う夢であるように思われる。そしてそのためにはたしかに──アメリカン・ドリームを語る一方で、アメリカは「単なる個人の集まりcollection of individualsではない」と協同主義への志向を選挙勝利演説の中に織り込んだ──オバマ大統領のバンドワゴンに乗ることも必要であるかもしれないのである。
<書誌情報>
「『植民地責任』論と米国社会──抗議・承認・生存戦略」永原陽子編『「植民地責任」論:脱植民地化の比較史』(青木書店、2009年3月31日、427+X頁):366-392頁。共著者、永原陽子、清水正義、平野千果子、飯島みどり、吉澤文寿、浜忠雄、津田みわ、吉國恒雄、前川一郎、渡辺司、尾立要子、川島真。
http://www.amazon.co.jp/「植民地責任」論―脱植民地化の比較史-永原-陽子/dp/4250209075