映画「ミルク」が背負うもの─生きるためのゲイ権利運動─ キネマ旬報2009年5月上旬号39-40頁掲載

『キネマ旬報』2009年5月上旬号に掲載させていただいた原稿を、若干の加除訂正およびウェブ・リンクなどの参考情報を付して公開させていただきます。執筆の機会をいただいた『キネマ旬報』に感謝申し上げます。


キネマ旬報2009年5月上旬号39-40頁掲載

映画「ミルク」が背負うもの─生きるためのゲイ権利運動─

カミングアウトの選択は、現在も個人に押しつけられている

無残な殺害事件から30年を経た2008年11月、映画『ミルク』が全米で公開された。ハーヴィー・ミルクを恩師と仰ぐゲイ権利運動家で、映画監修にも協力したクリーブ・ジョーンズは、十数年越しの企画実現に感慨無量の思いを折々のインタビューで語っている。そこからは、『ミルク』が、アメリカのゲイ権利運動にとって失敗が許されない、言わば映画以上の役割を負わされた映画であることが伝わってくる。その背景には何があるのだろうか。

映画『ミルク』は、ニューヨークから来たハーヴィー・ミルクがサンフランシスコのゲイ・コミュニティ「カストロ通り」の「市長」として彗星のごとく活躍したわずか数年間、とりわけ全米で初めて自らゲイであることを認めるオープンリー・ゲイが就いた公選職である市政執行委員としての、殺害事件まで一年に満たない時間を切り取って見せる。そこで描かれているのは、ゲイがアメリカ社会のなかで黒人やアジア系あるいは女性などと同じマイノリティとして自己主張し、それが一定の承認を得てゆくという「歴史が作られた」風景である。ただし他のマイノリティと異なり、ゲイは、自ら暴露(カミングアウト)するか、露見しない限り、社会的にはゲイと見なされない。むろん「ゲイであること」自体は選択ではないが、カミングアウトするか、ゲイであることを物置=クロゼットに隠して生きるか(closeted)は、ミルクの当時も現在も、個人に押しつけられた選択の問題であり続けている。ミルクはカミングアウトを運動の一大スローガンとしたが、それはまた映画の重要な主題でもある。

人種・民族・宗教・性別による差別を禁じ、アメリカの政治・社会規範を大きく前進させた公民権法(1964年)も、ゲイの差別は禁じておらず、ゲイの社会的・経済的権利は州法で制限できる。ミルクが死の直前まで戦って不成立という勝利を勝ち取った、公立学校の同性愛教職員解雇を求めるカリフォルニア州住民投票提案第6号(1978年)もそのひとつの企てであった。映画『ミルク』の公開と前後して行われた選挙では、カリフォルニア州憲法を改め婚姻を異性間に限定する住民投票提案第8号(2008年)が成立、激しい抗議運動を呼んでいる。近年のゲイ・ムービーの興隆ぶりからは想像しにくいことだが、全米の多くの州でゲイ差別の法体系が厳然として存在しているのがアメリカの現実なのである。

この現状を変えるには、ゲイ権利運動は、いっそう力を持たなければならないが、そのためにはさらなるカミングアウトが必要だ。しかし、法的保護に頼れない現実のもとで、カミングアウトは個人に大きなリスクを負わせる。実はミルク自身、オープンリー・ゲイとして生活したのは40歳前後からのわずかな年月でしかなく、それまでは、14歳以来ゲイとしての性生活を送りながら、典型的なクロゼットとして生きてきた。米軍がゲイを排除していた時代にミルクは海軍に勤務して満期名誉除隊し、ウォール・ストリートでアナリストとして成功。共和党保守派を支持し、ゲイであることの露見を恐れるあまりゲイ権利運動に目覚めた恋人と関係を絶ち、相手を自殺未遂に追い込んだ経験もミルクにはある(この間の事情はランディ・シルツによる評伝『カストロ通りの市長』邦訳『MILK-ゲイの「市長」と呼ばれた男、ハーヴェイ・ミルクとその時代』にくわしい)。そんな彼が「カストロ通り」で活躍できたのは、クロゼットとしての罪の意識や心の傷をゲイなら誰もが理解できたからだろうし、過去と決別して全身全霊をゲイ権利運動に捧げたミルクの姿が彼らに勇気を与えたからだろう。

映画は、運動家としてだけでなく、私人としてのミルクをも描く

現在のアメリカでも、保身のために反ゲイ運動に直接・間接に加担するクロゼットがいるという醜い現実がある。そうした「裏切り者」あるいは人気スターや有名人がゲイであることを暴露することをアウティングと呼ぶ。近年、続発した共和党系政治家やキリスト教右派指導者の同性愛買春・ハラスメントのスキャンダルは、ブッシュ政権・共和党への支持が瓦解する一因ともなった。アウティングを最悪のプライバシー侵害でナチズムのゲイ弾圧と同列だとする批判がある一方、オープンリー・ゲイのジャーナリストであるミケランジェロ・シニョリレは、それが反ゲイ運動への最も有効な反撃であり、有名人のアウティングはゲイの社会的認知につながるとして譲らない(主著『クィア・イン・アメリカ』を参照)。

 
こうした議論も、結局は主流社会のゲイに対するまなざしという問題に帰着する。それゆえ人々の価値観に大きな影響力をもち、しかも長年クロゼットの有力者たちが采配をふるってきたハリウッドは、ゲイをめぐる政治の主戦場でもある。そこに、『ミルク』が単なる映画以上の役割を負わされた意味がある。ランディ・シルツの評伝『カストロ通りの市長──ハーヴィー・ミルクの生涯と時代』(1982年初版)の映画化権を取得したオリバー・ストーンが、これはゲイの映画人たちが担うべき企画だという声に押されてガス・ヴァン・サントに映画化を託したのが1992年(この間の事情は『クィア・イン・アメリカ』に詳しい)。それから15年あまり、まさに満を持して、ダスティン・ランス・ブラックによる優れた脚本とショーン・ペンをはじめとする俳優陣に恵まれて映画化が実現したわけである(主役をゲイが演じなかったことは課題として残ったが)。

 
関係者の消息を伝えるラスト・クレジットは、ミルクの死後まもなくゲイ・コミュニティがエイズという巨大な災厄に襲われたことを観客に思い起こさせる。恋人たちを含めてミルクを知る者の多くが、1990年代、HIV感染症/エイズにより亡くなった。ホモフォビアという点でも最悪の暗黒時代をゲイ・コミュニティにもたらしたこの危機を克服するうえでも、セクシュアリティの境界を乗り超えて他のマイノリティや労働組合などと連帯したミルクの運動とその記憶は、かけがえのない遺産として、クリーブ・ジョーンズのエイズ・メモリアルキルト運動などに受け継がれた。

 
撮影協力の経験は喜びとともに多くの人が亡くなったことへの心の痛みを感じさせたというジョーンズの言葉や、当時を知る人々が、同じ場所に復元されたミルクのカストロ・カメラ店のセットを訪れ涙ぐんでいたというエピソードは、殺害で幕を閉じたとはいえ、ミルクの運動が、エイズ危機以前のゲイ権利運動のなかで最も幸福な時間として記憶されていることを物語っている。何よりそれは、人を惹きつけてやまないミルクの人間的魅力がもたらしたものだ。その魅力は、今回の作品の基礎ともなっている1984年制作のアカデミー賞受賞ドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』で鮮やかに追体験できる。しかし、ヘテロセクシャルの視線を強く意識したドキュメンタリーでは、ミルクのゲイとしての内面や恋人たちとの関係はほとんど描かれていない。

 

これに対して映画『ミルク』は、運動家としてだけでなく、性愛を含めたミルクの私人としての生活と悩みに光を当てた。これもゲイの脚本家と監督によって初めて可能になったことだ。映画の終盤、やがてミルクを射殺することになる市政執行委員の同僚ダン・ホワイトに「お前には(ゲイ権利問題という)イシューがある。(政治的に目立つには)有利だよな」と言われたミルクは、自分がクロゼットだったために三人もの恋人を自殺未遂に追い込んだ過去に触れ、ゲイ運動は「イシュー以上のものだ、ぼくらの命のために戦っているんだ」と反駁する。自分が自分であることがイシューになってしまう、されてしまう、しなければならない、そんなアメリカ政治の現在に向けたゲイの万感の思いをそこに聞いたような気がした。(おわり)

(訂正)

上記文中で「全米で初めて自らゲイであることを認めるオープンリー・ゲイが就いた公選職」にハーヴィー・ミルクが当選したと書きましたが、正確ではありませんでしたので訂正します。ミルク以前にもオープンリー・ゲイ(レズビアン)の公選職への立候補・当選者はいました。1974年にはオープンリー・レズビアンのKathy Kozachenko氏がミシガン州アナーバーの市評議員に当選、1975年には同じくElaine Noble氏がマサチューセッツ州議会下院に当選しています。またゲイ(男性)という点では、ミネソタ州議会の上院議員を1972年から2000年まで28年間にわたってつとめた、ミネソタ大学の歴史学教授でもあるアラン・スピア(Allan Spear, 1937-2008)氏が知られています。スピア議員は初当選当時はクロゼットでしたが、1974年にカミングアウトしました。同氏は長年にわたってミネソタ州議会上院議長をつとめ、党派を超えた尊敬を集め、同州のGLBTをはじめとするマイノリティの人権擁護にも大きな役割を果たしました。

Allan Spear議員/教授の追悼記事

http://www.startribune.com/politics/30874424.html (スター・トリビューン紙)
http://www.glbta.umn.edu/schochet/spear/ (ミネソタ大学GLBTAプログラム)