「東アジア」とアメリカ─広域概念をめぐる闘争─

くわしくは本誌を。一部を紹介します。
======================================
「『東アジア』とアメリカ:広域概念をめぐる闘争」『歴史学研究』907号(2013年7月):15-25頁。
======================================
はじめに
過去半世紀にわたって「東アジア史」を問う方法に含まれてきた「同時代史的認識」(本特集の趣旨文から)──この場合の「同時代史的認識」とは、もちろん、いかなる地域・時代を対象とするにせよ、歴史研究者が先鋭な問題意識をもって同時代と向かい合う姿勢を含意しているに違いない。とはいえ、それは意地悪に言い換えれば「時代に翻弄される」ということでもある。
冷戦後、急速な経済発展と経済的結合・相互依存関係の深化を直接の契機として、北東アジアと東南アジアを包摂する広域概念としての「東アジア」(以下、広域概念の場合は「東アジア」と表記する)が日本社会でさかんに語られ始めた。歴史叙述にも少なからず影響を与えている。そこで本稿では、現代の広域概念としての「東アジア」を──アメリカ(合衆国)の関与という問題をふまえて──どう捉えるかという問題を考えてみたい。

(略)
3. せめぎ合う広域概念
このように「東アジア」と「アジア太平洋」というふたつの広域概念は、ごく最近まで政治的ライバル関係におかれてきた。そこで両者が日本社会における言説空間のなかで占めてきた「勢い」を捉えるきわめて単純な試みとして、日本で発行部数第1位の日刊紙『読売新聞』記事データベースにおいて「東アジア」「アジア太平洋」がそれぞれ検索語として登録されている記事の件数を──同一基準で検索語が登録されている1986〜2012年について──比較してみた(付図参照 )。
検索語としての「アジア太平洋」登録記事の件数はAPECサミットが国内で開催された前後の年に突出して大きくなる傾向がある。とりわけAPEC大阪サミットが開催された1995年には期間中最高の979件、1994〜1996年の前後3年間の合計では1919件を数え「アジア太平洋」ブームは頂点に達した。しかし、2000年代に入ると登録記事の件数は頭打ちから減少傾向に入り、APEC横浜サミットが開催された2010年には再び急増したが、1995年と比較するとほぼ半数の516件にとどまった。2011・12両年は300件弱である。
次に「東アジア」登録記事の件数を「アジア太平洋」と比較してみると、興味深い時期区分が浮かび上がってくる。すなわち、①「東アジア」が 1989年を除いて「アジア太平洋」を件数で上回りつつ漸増していた第Ⅰ期(1986〜93年)、②1995年APEC大阪サミットを頂点として「アジア太平洋」が一貫して「東アジア」を上回った第Ⅱ期(1994〜2001年)、③再び「東アジア」が2003年を除いて「アジア太平洋」を上回った第Ⅲ期(2002〜09年)──この時期はとくに第1回東アジアサミット開催翌年の2006年に期間中最高の514件を記録、2005〜07年の合計件数では「アジア太平洋」(683件)の2倍余り(1404件)に達し、「東アジア」が「アジア太平洋」に「取って代わったかのよう 」な観があった。ところが2000年代後半に入ると「東アジア」の件数も実は頭打ちとなっている。そして、④現在・第Ⅳ期(2010〜2012年)は、2010年のAPEC横浜サミットで再び「アジア太平洋」が「東アジア」を大きく上回り、2011・12年はそれぞれ300件前後で、「東アジア」と「アジア太平洋」両者の件数の差が目立たなくなっているのである。
ここに示した「東アジア」を検索語とする登録記事の件数は、実は「いくつもの東アジア」の総和である。そこには東アジアを北東アジアに限定する伝統的な呼称が含まれているだけでなく、広域概念として「東アジア」が語られる場合でも、アメリカの──安全保障・外交問題を中心とする──政策の対象地域として「東アジア」が取り上げられている記事が多数含まれている。そこで付表に、「東アジア」に加えて「米国」「日米」の検索語登録の有無別に件数を示してみた。「東アジア」が「米国」「日米」とともに語られる件数が一貫して相当の割合を占めていることが分かる(1986-1999年の平均が43%、2000-2012年の平均が29%)。2000年代になると確かに比率は下がるが件数はむしろ増加傾向を示して、2006年には当該期間中の最高件数(164件)を記録している。
「東アジア」はまた、国際協調・経済連携・文化交流の場として「正のイメージ」で語られることもあれば、南シナ海・東シナ海・日本海における領土・領海問題、北朝鮮の核・ミサイル開発などがもたらす軍事的緊張、「日本軍従軍慰安婦問題」や歴史問題をめぐる摩擦・対立の場として「負のイメージ」で語られることもある。そこで表では、「東アジア」登録記事を、さらに記事内容で分類した件数の推移を示してみた。すると「正のイメージ」に関連性が高いと思われる文化関連記事および同様に関係性の強まりを示す記事が多いと考えて良い経済関連記事がそれぞれ2006年に最高件数(文化86件、経済121件)を示したあとは、伸び悩んでいることが分かる。これに対して「東アジア」を検索語とする全ての記事のなかで「対立」や「懸案」の要素を含むと思われる検索語(反日、歴史問題、歴史認識、靖国参拝、核開発、ミサイル、尖閣、竹島、従軍慰安婦)の何れかを含む記事を抽出してみると、1990年代後半以降、とくに2005-2006年と2012年に件数が高くなっている。「東アジア」が国際協調・経済連携・文化交流の場だけでなく対立の場でもあることを、付表は物語っているのである。
Ⅲ 広域概念をめぐる闘争
1. アメリカの「東アジア太平洋戦略」
数字だけからではふたつの広域概念のせめぎ合いを描き出すことはできない。しかし実際の政治史と付表に示した件数の推移は意外なほどに対応する。そこから浮かび上がるのは、アメリカのヘゲモニーが「東アジア」地域主義を牽制し、あるいは「解毒」してきた歴史である。またその過程で「東アジア」地域主義への志向が垣間見えた日本を、日米安保再定義により「アジア太平洋」の側に繫留するべく日米両政府が協力してきた歴史である。
(後略)
本誌購入のお問い合わせは・・・歴史学研究会までどうぞ。
http://rekiken.jp