和解と忘却――戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影―― (1)和解と忘却

 

 

(2015年12月27日転載)

(注)本稿は岩波書店『思想』2005年12月号掲載論文をあらたにウェッブ掲載用に改題・改稿したものです

1 はじめに

2005年・戦後60年を迎えた北東アジアの国際関係は、ふたたび、歴史教科書や小泉純一郎首相の靖国参拝を焦点とする「歴史問題」で混迷を深めた。

この問題では、近隣諸国の理解を得られない小泉首相や日本人の独断的な行動や説明不足が批判されているのであるが、視点を変えると、近隣諸国の側にも日本との対話方法をめぐるとまどいがあるように思われる。はたしてアジア諸国は日本のふるまいに対してどんなメッセージを発してきたのだろうか、また、発するべきなのだろうか?この観点から注目できる国のひとつが、戦後日本(人)への語りかけ方という点で劇的な変化を見せてきた国、フィリピンである。小論では、その変化のあり方を検討することによって、アジア諸国と戦後日本の対話――あるいは対話の欠如――の構図の一端を浮かび上がらせてみたい。

1951年9月、サンフランシスコ平和条約会議で、各国代表による見解表明の演説に立ったフィリピンのカルロス・P・ロムロ全権代表(外相)は、対日平和条約が標榜する「寛大な講和」の論理と、戦争被害の実態に応じた補償よりも日本の経済復興を優先する制限的な賠償条項を鋭く批判し、日本の再軍備の行方に対する強い懸念を表明した演説のなかで次のように述べた。

私が代表しているのは、日本にもっとも近い隣人のひとつであり、日本の手で不釣り合いに重い破壊と苦痛を負った国であります(中略)私は日本に対するフィリピン人の(戦後の、筆者)態度が感情によって左右されてこなかったと偽ることはできません。人間である以上そんなことは言えないのであります[1]。

朝鮮戦争の展開を注視しつつアメリカが企画・演出した反共外交の一大舞台であった対日平和会議において、強烈な言葉で日本の戦争加害の責任を追及したロムロの演説は、日本代表団に参加していた西村熊男(当時・外務省条約局長)によれば、「対日怨恨と不信の深さをまざまざと感じさせるもので、会議を通じて日本人の胸に一番深刻な痛みを感じさせた[2]」。会議の最後を飾る平和条約の受諾演説で吉田茂首相は、「古い日本」が「人類の大災厄」に果たした役割を「悲痛な気持ちをもって回顧」し、あらゆる野望と征服欲から「洗い清め」られた「新しい日本」が平和国家として歩むことを誓約した[3]。しかしこの点についてもロムロは、吉田に先立つ演説で、連合国占領下のわずか六年で日本が軍国主義を完全かつ恒久的に一掃したという奇跡的な大転換を容易に信じるわけにはいかないとして、日本に「精神的な悔悟と更生の明白なあかし」を求めたのであった[4]。

ここに示されているのは、北東アジア諸政府(中国・台湾・南北朝鮮)が不在のサンフランシスコ平和会議という舞台において、フィリピンが、日本の国際社会復帰に対する、もっとも厳しく疑い深い批判者としての役割を果たしていた姿である。

それから半世紀あまりが経った今日、日本のメディアの視界に「過去の戦争」をめぐる批判者としてフィリピンが姿をあらわすことは無い。フィリピン政府も、この問題については「沈黙は金」を決め込んでいるフシがある。すでに一〇年前、一九九五年の時点で、私が参加したフィリピン政府主催のフィリピン戦「解放五〇周年」関連行事のなかで、加害者・加害国としての日本や日本人をイメージさせるような演出や言説は慎重に回避されていた[5]。また抜群の知日派外交官として知られるドミンゴ・シアゾン現駐日大使(エストラーダ政権外相)は、二〇〇一年、アロヨ政権の駐日大使として日本に再赴任の際、朝日新聞の紙面で「日比間で政府レベルでは歴史認識が問題になったことはない」と発言した[6]。ロムロ演説から半世紀、隔世の感を禁じ得ない発言である。

半世紀あまりを隔てたふたりの外相(経験者)の言葉のあいだを、私たちはどのような理解で埋めてゆけば良いのだろうか。

この問いに答えるために、以下、小論は、第二節でまず全体の議論の前提として、フィリピン社会の「戦後意識」とその背後にある戦争被害体験の特徴を指摘する。次に第三節で、戦後フィリピン社会の対日姿勢が初期の報復・告発から和解に向けて傾斜した経緯を概観する。そして第四節で、フィリピン・日本(以下、比日)間で達成されてきた和解の代償としての記憶の風化という問題と、「マニラ戦」被害者との向かい合い方について考えてみたい。

2 フィリピンの「戦後意識」と「マニラ戦」

   喪失の戦後

瓦礫と焼け野原から始まる戦後。日本とフィリピンの歴史感覚には、この一点において、他のアジア諸国とは異なる共通点がある。東南アジアのインドネシアやベトナムあるいは朝鮮半島・中国などでは、戦後の独立戦争や内戦の争乱が時代を分かつ大きな意味をもったのに対して、日本人とフィリピン人のあいだでは、ともに戦争末期に国土と社会が破壊し尽くされた記憶、紅蓮の炎と瓦礫と大量死の記憶、そして戦前の社会がそこで終わったという歴史感覚が大きな位置を占めている。

しかし、戦後が始まったあとの時間の重ね方は、ふたつの国のあいだで大きく分かれてゆく。物理的・金銭的な意味での戦災復興の時代を、フィリピンと日本は、ほぼ同時期(1940年代後半から50年代前半)に経験した。アメリカはフィリピンの戦時中の物的損害に対する補償の必要を認め、1946年フィリピン復興法で総計6億2000万ドルを交付するなど[7]、1950年代までのフィリピンは復興援助に依存して表面的には繁栄した。それにもかかわらず、戦後日本人の多くが抱いたような再生の感覚を、フィリピン社会は結局もてなかったように思われる。むしろフィリピンの戦後史像から感じるのは――回復不可能な、という意味での――喪失感である。

この喪失感は、フィリピン経済の慢性的不振によるアジア経済成長からの落ちこぼれ感によっても強められてきた。戦後フィリピン社会は、①独立(1946年)からフェルディナンド・マルコス大統領による戒厳令布告(1972年)までの戦後民主制の時代(第3共和国[8])、②マルコス独裁(1972~86年、第4共和国)、③民主制への復帰(1986年~現在、第5共和国)の三期に区分される。いずれも――短期間の多幸感をのぞけば――経済の不振・大衆的貧困の増悪などを背景に人々は社会の現状に自己肯定感をもつことができず、政治的制度改革を処方箋とする問題解決が叫ばれてきた[9]。この間を通じてフィリピンのメディアや政治家はつねに戦後フィリピンの「失敗」について語り続け、1960年代までのフィリピンがアジアで「日本に次ぐ」経済的に豊かな社会であったというクリシェが語られてきたのである[10]。

自己否定的な戦後社会像は、戦前・植民地期に対する強い郷愁と結びついている。フィリピンではコーヒー・テーブル・ブックスといって居間に飾る高価な図版中心の大型本の出版が以前から盛んであるが、そこでも好んでスペイン時代や1930年代までのアメリカ植民地期の図像が強い郷愁を込めて語られ続けている。こうした――成長の現在を生きる東南アジアというイメージからはほど遠い、追憶に生きる老人のような――郷愁の言説を再生産・消費している中核は、首都マニラの富裕層・知識人のコミュニティである。しかし彼ら・彼女らの郷愁と懐古を、戦後社会の「失敗」論や「内なる植民地主義」の片割れとしてだけ片付けるわけにはいかない。そのノスタルジアは、ほとんどの場合、戦争による破壊・死の記憶――とりわけ「マニラの破壊」、すなわち1945年2月3日から4週間にわたる「マニラ戦」の記憶――と執拗なまでに結びついているからである。

マニラの死

フィリピンにおける戦争末期の日米戦は、1944年10月20日に米軍がレイテ島に上陸して本格的な地上戦が始まり、翌45年1月4日に米軍はルソン島北西部のリンガエン湾に上陸して、ただちに南下してマニラをめざした。ダグラス・マッカーサーにとってマニラ市の奪回は作戦上の必要を超えた至高の目的であった。2月3日、日本軍の不意を衝いてマニラ市を南北に分かつパシグ河の北岸を急襲・占領した。ここから始まったのが「マニラ戦」である。この戦いで日本軍は――山下奉文将軍指揮下の陸軍主力が北部ルソンの高原都市バギオに「転進」した後も市内に残留した――マニラ海軍防衛隊と幾つかの陸軍部隊が、パシグ河南岸の、スペイン時代の城塞に囲まれた旧市街イントラムーロスから市中心部エルミタ・マラテ地区のビル・民家を陣地化して徹底抗戦した。これに対して第37歩兵師団を中心とする米軍は、兵員の損害を最小限に抑えるために重砲火による事実上の無差別攻撃で街区を次々と破壊していった[11]。

戦いは日本兵が完全に掃討されるまで4週間にわたって続き、アジアでは最大の、第2次世界大戦全体を見わたしてもスターリングラード、ベルリン、ワルシャワに次ぐと言われる大規模な都市破壊によって、マニラは文字通り灰燼に帰した。日本軍はごくわずかの投降者をのぞいて全滅した(1万6665名の遺体を確認)。米軍戦死者は1010名、負傷5565名と記録される。むろん最大の犠牲者はマニラ市民であったが、イラク戦争と同様に民間人犠牲者数の公式統計は存在しない。戦前のマニラ市の人口は60万人強(1939年国勢調査)で、東京裁判・山下裁判などで日本軍の残虐行為の責任を追及した検察側は、民間人犠牲者の総数を約10万人と算定した。米軍戦史などもこの数字を採用している[12]。もちろん残虐行為を含めた戦争被害はフィリピン全体に及んだ。戦後フィリピン政府の算定によれば、1939年の総人口約1600万人に対して戦争犠牲者は全土で111万人余りにのぼり、物的被害も58億5000万ドル(1950年価格)に達した(人的被害を合算して約80億ドルと算定[13])。

しかしこうした犠牲者の数以上に深刻なのは、生き残った者をも生涯苦しめ続けてきた、日本軍の蛮行による苦痛と死の記憶である。市内随所で繰り広げられた日本軍による殺戮と陵辱は、その規模と方法において単なる非戦闘員殺害の範囲を超えたジェノサイドであった。しかも、それら残虐行為の被害事実が(加害者の特定には至らずとも)確度の高い証言と記録で裏づけられていた点も「マニラ戦」の大きな特徴であった。それらは米軍の目と鼻の先で「解放」直前に発生したがゆえに、ただちに検証と捜査の対象となった。また戦前のエルミタ・マラテ地区は、外国人(非フィリピン人・アメリカ人)多数を含む富裕層の住宅街を含み、大学・総合病院などが集中する地区でもあった。このため残虐行為の生存者と目撃者には、その経験を記録と証言に残す方法と手段を知る人々が潜在的には多数含まれていた。東京裁判や山下裁判などに提出された宣誓供述書には、単なる目撃証言を超えて、いわゆる二次被害を考慮すれば語ることに勇気を必要とした内容にわたり、日本兵の蛮行の事実が証言されている。いまひとつ見逃してはならないのは、「マニラ戦」をめぐって長年タブー視されてきたもうひとつの記憶――米軍の無差別砲撃による大量死である。近年の戦史研究は、民間被害の六割を日本軍による殺戮、四割を米軍の重砲火による死亡と推定し、マニラ市民がほとんど哲学的とも言える諦観をもって米軍砲火による犠牲を受忍したと述べる[14]。近年では、「マニラ戦」の記録・回想の出版点数の増加とともに、米軍の強引な砲撃に対する生存者や遺族の怒りも語られるようになっている[15]。

「マニラ戦」は単に首都の破壊だけでなく、スペイン時代から育まれてきた植民地都市の豊穣な文化を滅亡させ、多国籍的な魅力に富む生活様式を抹殺した戦いであった。物理的復興にもかかわらず文化が再建できなかったのは、その文化を担った人々じたいが抹殺されたからである。生き残った人々も、被害体験や死の記憶と結びついたその場所で文化を再建する意欲を失った。戦後、富裕層はエルミタ・マラテ地区を放棄して、現在の新都心地区にあたるマカティ地区周辺に武装警備員が守る巨大な邸宅街を構築していった。歓楽街だけが残ったエルミタは、マルコス戒厳令時代以降、グロテスクにも日本などからのセックス・ツァーの舞台となっていった。

「マニラの破壊」の深刻さ、生存者の心的外傷の深刻さを理解するためには、個々の被害事実に立ち入ってその経験と記憶を受けとめることが必要である。小論はあえてそこには立ち入らない。またここでは「マニラ戦」に焦点をしぼったが、フィリピンの戦争被害は政府算定によれば死亡者数にして「マニラ戦」の10倍にのぼっている。BC級戦争裁判が示すように日本軍による残虐行為の範囲も中南部ルソン、パナイ島さらにはフィリピン各地にわたっている。それらの破壊の質的な深刻さと被害感情についてどれだけ想像力を働かせることができるかによって、戦後フィリピン人の対日姿勢に対する評価も自ずと異なってくるのである。次にこうした深刻な戦争被害を経験したフィリピンが、戦後日本に対する発話のあり方をどのように変遷させてきたのかを辿ることにしよう。

3 対日姿勢の政治学

報復と告発

戦後はじめての日本人とフィリピン人の遭遇の典型的な光景は、投降して下山する傷病兵だらけの日本軍捕虜に向かって猛烈な勢いで石を投げるフィリピン人老若男女の姿であろう。戦争の惨状をふまえれば容易に想像できるように、戦闘終結までに多くのフィリピン人は復讐の鬼と化していた。

戦後ただちに、比島派遣軍司令官・山下奉文を筆頭に戦犯裁判が開始された。山下裁判がマニラの残虐行為の軍法上の責任を焦点として展開し、無理のある審理の末に有罪判決・絞首刑執行に至ったことはよく知られている。その後のBC級戦犯裁判でも、被害事実は特定できても加害者の特定が困難な事例もあり、法文化の違いも手伝って、結果として相当数の旧日本(朝鮮・台湾)軍人・軍属が冤罪の被害にあった[16]。さらに報復行為はフィリピン人のあいだにも広がり、対日協力者への報復や抗日ゲリラ間の内紛が流血化することも多く、中部ルソン地方の米作農村地帯では左翼系抗日農民ゲリラ・フク団の政治的処遇問題から内戦(フク反乱)が始まった。

こうした騒然たる社会情勢のなかで、フィリピン戦生還者の日本人は、投降・下山後に受けた報復的処遇・虐待や自らBC級戦犯裁判の被告になることなどを通じて、フィリピン社会全体に渦巻く日本人に対する報復感情を身をもって体験し、彼ら自身の関与の有無にかかわらず、激しい報復感情を抱くだけの被害を日本がフィリピンに与えたのだという認識を生還者の大多数が共有するところとなった。

一方、敗戦後の日本国内でも、BC級戦犯裁判の推移や、米軍が日本占領の補助兵力として雇用したフィリピン人との接触などを通じて、フィリピンの戦争被害やそれにともなう「対日悪感情」が、ある程度知られるようになった。さらに日本社会の全体にとって大規模な教育機会となったのが、東京裁判だった。永井均は、東京裁判においてフィリピン政府が派遣したペドロ・ロペス検事とデルフィン・ハラニーリャ判事が、国際検察団による立証段階でも判決においても、日本の戦争責任とりわけ残虐行為責任追及の急先鋒だったことを明らかにしている[17]。こうした機会を通じて日本社会では、ある種の常識・通念として、フィリピンの戦争被害が甚大で、被害国の立場から日本の戦争・侵略責任を糾弾する「対日感情」の厳しい国であるという印象が共有されるようになったのである。

攻撃と交渉

戦後フィリピン人の多くにとって、日本と日本人は、少なくともしばらくのあいだ目にもしたくない、耳にもしたくない存在であった。1956年に国交を樹立したのちも、日本人のフィリピンへの渡航や滞在期間は厳しく制限された。一方、投降後の処遇や戦争裁判に対する不満から多くの日本軍将兵も「二度と来るものか」とフィリピンを「恨みに恨んで[18]」復員し、在留邦人も財産を没収のうえ追放され、北部ルソンやミンダナオ島を中心に残された日系人は厳しい戦後を歩んでいかなければならなかった。1960年代半ばまで比日間の人的交流はきわめて低調であった。

このように人的交流が事実上停止していた一方、戦後アジア冷戦構造のなかで、両国はともにアメリカとの基地・同盟関係に従属・依存する反共親米国家として、アメリカを介した間接的な同盟者とならざるを得なかった。サンフランシスコ平和条約会議は、このような逃避できないアジア国際政治の現実にフィリピンを引き戻す機会でもあった。そして、もし日本を無視できないのであれば対日国交から最大限の利得を獲得しなければならないという命題に対してフィリピン政府が出した答えが、ロムロ演説に代表されるように「戦争の記憶」を外交上の攻撃武器として最大限に利用することであった。

サンフランシスコにロムロ外相を全権代表として派遣したエルピディオ・キリノ自由党政権は、アメリカにとってあらゆる意味で厄介な存在であったが、こと平和条約については、アメリカの旧植民地で日米戦争の主戦場であったフィリピンの政府が参加・調印しない平和条約はあり得なかったから、アメリカはキリノ政権に最大限配慮しなければならなかった。この有利な立場を生かしてフィリピン政府は、執拗な対米要求を通じて日米両政府の無賠償方針を撤回させた。また、平和条約最終草案の確定作業でも、フィリピン政府は、賠償総額・支払期間制限の撤廃などをアメリカに受け入れさせ、また最後まで、いわゆる役務賠償だけでなく現物・現金賠償の可能性を残すよう主張し続けた[19]。

修正討論を許さない条約調印のためだけの会議であったサンフランシスコ平和会議でも、ロムロ代表は、条約草案をめぐる対米交渉で貫徹できなかった点をあらためて主張し、日本の支払能力への配慮よりも被害実額の補償の原則を優先すべきことや、役務賠償により再びアジア諸国が日本に経済的に従属する懸念を強調し、平和条約調印後の二国間賠償協定交渉であらためて平和条約の内容を超えた賠償を求める権利を留保する旨を宣言した。戦争犠牲の怨恨を強調したロムロ演説は、こうした賠償請求権の――ダレス特使に言わせれば「過大[20]」な――要求にリアリティをもたせるためにも是非とも必要だったのである。

外交上の武器として過去の「記憶」が使われる点では、サンフランシスコ平和会議の当時も現代の「歴史問題」もあまり変わらない。所詮は限られた政治外交上の語彙の範囲内で「記憶」が記号化して語られている点は変わらない。大きく異なるのは、それらの記号が喚起しうる「記憶」の質と量であり、またその共有の範囲と深度である。西村熊男が「胸を痛め」、頭を垂れることができたのは、ロムロ演説が当時、具体的な例示がなくともフィリピンの戦争被害の深刻さについてのイメージを聴衆に喚起できたことを示唆する。賠償協定調印後の国会審議でも、両国間で妥結した賠償金額(賠償5億5000万ドル、経済協力借款2億5000万ドル、支払期間20年)の過大を糾弾して反対する野党に対して、日本軍占領下のフィリピンを知る立場から、自由民主党の小滝彬参議院議員は、フィリピン政府が当初要求した被害の実額に応じた賠償額80億ドルが「全く根拠のないものではなく(中略)この程度で折れたということに対しては(中略)ステーツマンシップに対して敬意を表しなければならない」と発言している[21]。このように、フィリピン側が攻撃的に喚起する「記憶」を受けとめる感性(を裏づける経験)が、1950年代の日本にあっては、保守層の間にも存在していた。その限りにおいて攻撃的な「記憶」の喚起は、交渉力を上げるための外交戦術上のメリットをもっていたと言えるだろう。

3 「お詫び」と「厚意」の互恵関係

仮にこれまでに述べたような報復、告発、攻撃が、戦争の記憶をめぐるフィリピンから日本と日本人に向けた発話の基本文法であり続けたならば、比日関係のその後の展開はかなり異なったものになっていただろう。フィリピンに対する反発から、戦犯裁判や国外追放などの経験を通じて旧軍人や在留邦人の側に根強い被害者感情が国民的記憶に変換されて頭を擡げた可能性も十分にある。しかし、現実は全く異なる展開をたどった。国交正常化後に人的交流が再開されてまもなく、フィリピン社会は日本人戦没者の慰霊行為に協調して「厚意」を示すこと――そして忌まわしい過去について沈黙すること――が、日本人とのきわめて魅力的な関係構築の手法になりうるという事実を発見したのである。

日本人の戦没者総数が51万7000人を数え[22]、その大多数が「草むす屍」となったフィリピンは、日本人にとっても最悪の戦場であった。それゆえ経済復興と高度成長をへて1965年に海外旅行が自由化されると、妻・両親・兄弟などの戦没者遺族や旧軍人を中心とするいわゆる生還者が、戦没者の慰霊・遺骨収集あるいは慰霊碑の建立のためにフィリピンへの渡航を希望した。ここに日本人戦没者の慰霊をめぐる人的交流が発展する余地があり、その交流が比日関係に大きな影響を与えたと考えられるのである。以下は別稿において詳細に論じたので[23]、ここではごく掻い摘んで要点のみを指摘する。

まずこの交流の前提として重要なのは、慰霊に訪れる日本人が、日本の戦争加害国としての自覚と一定の「お詫び」の論理を携行していた点であった。

たとえば『マニラ・タイムズ』は、1963年10月の記事で、全国未亡人団体協議会の村田会長がフィリピンを訪問した際に、フィリピン戦争寡婦会などとの会合で「何度も涙をぬぐいながら」フィリピンの「母親たち、未亡人たち、子供たちの戦争の苦痛に心から遺憾の意」を表したことを「戦争寡婦が謝罪」という見出しをつけて報道している[24]。ここで村田は、同一の境遇にある同じ被害者としての共感の涙を通して、国民対国民の関係では日本人としてフィリピン人に謝罪することに成功している。

1970年代以降、盛んに自費出版された日本人遺族・生還者による戦跡巡拝記録でもほとんど例外なくフィリピンに対する「お詫び」が旅行記の文章や短歌のかたちで記録に織り込まれていた。戦跡巡拝旅行では、事情に不案内な遺族に対して生還者がフィリピンの戦争被害と国民感情を講義するという光景も見られた。ただし謝罪はあくまでも国民間の関係についてなされるのであって、ごくわずかの例外を除けば、追悼しようとする戦没者や生還者としての自分が加害者であったかどうかを直接確認することは無かった[25]。

一方、戦跡巡拝者たちを迎えたフィリピン社会の反応は、おおむねきわめて好意的であった。個人の戦跡巡拝者の先駆けとして知られる衣川貞は、1961年12月、当時80歳の高齢で亡息終焉の地北部ルソンのボントックを娘と共に訪れたが、その感想を「短い滞在の間よい面にだけ触れ、よい気分にだけ浸つて帰国出来たことが、不思議な程仕合せだつた」と記している[26]。1966年の日本遺族会訪問団長が語った「案ぜられた対日感情も、かえって意外なくらい歓迎され、温かいもてなしをうけた[27]」という印象は、ほとんどの日本人訪問者に共通していた。深刻な戦争被害にも関わらず日本人を寛容にもてなす「胸の熱くなる寛容さ」に感激した訪問者たちのなかには[28]、幾たびも再訪してフィリピンを「第二の故郷」と感じる者も少なくなかった[29]。彼らは、戦争体験が急速に風化する日本よりも、死者追悼を目的に訪れるフィリピンにその記憶保存の場を求めるようになった。

慰霊巡拝者に対する比側の厚意は、「対日悪感情」が喧伝されていた非常に早い時期(1950年代後半)から、戦没者慰霊のためにフィリピンを訪問しその保護を頼る日本人に対して、関係する町村長、有力者、警察などが一様に示してきた態度であった。そこにプラクティカルな政治力学を見ることも、もちろん可能である。対日報復の論理や攻撃的な「記憶」の喚起がフィリピン社会の国民的な政治空間や国際関係で依然として大きな比重を占めていればこそ、彼らは「厚意」を示し保護を与えることによって、日本人巡拝者からより大きな謝意を得ることができた。そして多くの場合、巡拝者に対するもてなしと巡拝者たちの地元関係者に対する贈与のあいだには互恵の関係が成立していった。その関係が草の根交流の起源になることもあった一方、1970年代末に問題化した遺骨や遺品の売買に示されるように、腐敗した経済的交換関係に取って代わられることもあった。

注目すべきことは、このような「お詫び」と「厚意」の互恵関係が、民間交流を超えて、比日政治外交関係の基本的な構成要素に組み込まれていったことである。

1953年のキリノ大統領による服役中日本人戦犯の恩赦・減刑と日本送還(任期末に最終的には全員を恩赦)が、歌謡曲「モンテンルパの夜は更けて(渡辺はま子)」とともに両国和解の起点として記憶されている。「マニラ戦」で家族の大半を失った被害者でもあるキリノが、日本側の懇請に応えて当時まだ圧倒的に強かったフィリピン社会の対日悪感情を乗りこえる「厚情」を示したことは、同年の大統領選で苦戦が予想され実際に敗北することになるキリノが賠償問題での日本政府の(互恵的)対応に期待した部分もあり、たしかに比日和解のパターンの起点と位置づけることができる。つぎに両国間の国民感情の転機として、1962年の皇太子・皇太子妃夫妻のフィリピン訪問がよく引き合いに出される。戦没者慰霊の営みが本格化していないこの段階に転機を求めることは私にはやや早すぎると思われるが、「対日悪感情」とその歴史的背景を十分に学習してフィリピンを訪問したに違いない、若き皇太子・皇太子妃夫妻と、そのホスト役であるディオスダード・マカパガル大統領一家(その長女が現大統領のグロリア・マカパガル・アロヨ)とのあいだには、戦跡巡拝者とその世話役としてのフィリピン人関係者と遠くない関係がたしかに成立していたことだろう。

さらに1973年、前年の銃撃戦で小塚金七を失った小野田寛郎がルバング島でついに投降したとき、長年にわたる住民被害の責任を一切問うことなく、英雄を遇する態度でマラカニアン宮殿でその肩を抱き小野田氏を驚愕させたマルコス大統領は、誰にでも分かるかたちで「お詫び」と「厚意」の互恵関係を実践した最初の大統領となった。マルコスはまた、1983年5月、フィリピンを訪問した中曽根康弘首相を大観衆を動員して歓待し、感激した中曽根首相から初めての謝罪とも言える次の発言を引き出している。

過去の戦争で貴国と貴国の国民に多大な迷惑をかけたことは極めて遺憾と思い、深く反省している……みなさまの友情と寛大さが温かければ温かいほど日本人はさらに深い反省と戒めを心がけなければならない[30]。

その後、1986年2月の政変で政権に就いたコラソン・アキノ大統領が11月に日本を訪問したとき、最晩年を迎えつつあった昭和天皇が「日本人が第二次世界大戦中にフィリピンに対してかけた迷惑について、おわびを言いつづけ、(アキノが)そのことは忘れて下さいと言ったが、天皇はそれにもかかわらず、日本人がフィリピンに強いた苦痛を日本が償うことを望んでいると述べた」と、テオドロ・ベニグノ報道官がリークする事件があった[31]。「おわびを言いつづけ」る昭和天皇と「忘れて下さい」と答えるアキノ大統領の姿は、比日両国の草の根の遺族交流から始まった「お詫び」と「厚意」の互恵関係のパターンが、ついに両国元首レベルにまで登りつめた瞬間を示していた。

同じ頃すでに北東アジアでは、教科書問題と靖国参拝をめぐる「歴史問題」摩擦の時代が始まっていた。これ以降フィリピン政府は、比日関係を――「歴史問題」がない隣国関係として――北東アジア諸国の対日関係と差別化しようと試みることになる。その延長線上に、小論の冒頭で触れたシアゾン大使の発言は位置しているのである。たしかに政府間レベルにおける手厚いODA供与(累計ではインドネシア、中国に次ぐ第三位、フィリピン側から見ると被援助額の五割強)は、両国関係の和解の成功を日本政府が外交上の資産として重視してきた態度の表れでもあり、その限りではフィリピン政府の「沈黙は金」外交は成果をあげているということもできるかもしれない。

それでは今日、首相の靖国参拝に抗議する中国と韓国に対して、国際社会復帰の厳しい批判者から転じて靖国参拝にも寛容な沈黙を守るフィリピン政府は、小泉首相の心にアジアの頼もしい隣国として認知されているのだろうか。フィリピン政府の期待はそこにあるに違いない。ところが実際には、国会における発言記録を参照する限り、小泉首相のフィリピンさらには東南アジアに対する関心は、歴代首相と比較してもきわめて希薄であり、ほとんど自分の言葉で語ることがない対象であり続けているというのが現実である。

首相と同様、日本のメディアの視界のなかで「フィリピン戦」の記憶が参照されることも、今やまれである。たしかに中国の反日行動が沈静化した2005年5月後半、突然ふってわいたミンダナオの旧日本兵生存騒ぎでは、マニラから、東京から、日本人記者団さらには芸能リポーターまでが、大胆にもイスラム武装ゲリラと政府軍の内戦が続くミンダナオ南部の玄関口ジェネラル・サントス・シティに殺到したが、しかしまもなく、「騒動の背景」にあるフィリピンの貧困、噂に尾鰭がつく社会などを嘆息混じりに解説して引き揚げていった。それは戦争の過去を喚起するというよりも、むしろ記憶の風化ぶりを見せつける出来事だったように私には思われる。「お詫び」と「厚意」の互恵関係がもたらした両国関係の和解は――恐らくフィリピン政府と社会にとっては予想外で不本意なことに――和解の果ての忘却をもたらしつつあるのである。

 

4 忘却と回復

和解と忘却

慰霊の営みから生成した「お詫び」と「厚意」の互恵関係というパターンが、ついには大統領と天皇の対話にまで登りつめたというエピソードは、いかにそれが、フィリピンと日本の少なくとも一定の経験を共有する世代にとって、熱狂的受容が可能な生き方であり、考え方であったかを示している。政府間レベルにおける手厚いODA供与(累計で中国、インドネシアに次ぐ3位、フィリピン側から見ると被援助額のほぼ5割)は、この互恵関係の延長線上に築かれた両国関係の和解の成功を、日本政府が戦後外交の大事な資産のひとつと見ている態度の表われでもある。

戦後日本人が内向きの平和主義を謳歌していた時代に、海外慰霊に赴くという特殊な事情はあったにせよ、日本の戦争加害の問題に多少なりとも向き合わざるを得なかったという点は、戦跡巡拝者たちのたしかに注目すべき側面であった。とはいえ、巡拝者たちは本当の意味で他者の被害の核心と向かい合うことが求められたわけではなかった。むしろ「詫びる日本人」に対してフィリピンの人々は「いまさら遺恨を語らず」沈黙の中に友好的な発話の意味を付与する傾向があったからである。まだ実は回復できていないそれぞれの心的外傷の奥深くに入らないこと、むしろ対話ではなく対話の回避を通じて友誼を取り結ぶことが大事であった。それぞれの被害からの回復のために、記憶の風化は、むしろ彼ら・彼女らの望むところだったのである。

問わなければならないのは、ここで達成された和解の質である。

戦没者追悼とは、過去を喚起する営みのようでありながら、実際には残された生きる者にとって想起するのが辛い故人の苦痛や死の記憶の生々しさを追悼儀礼によって浄化し、参列者の心の痛みを取りのぞこうとする営みである。儀礼のこのような心理的機能をふまえて慰霊をめぐる比日関係史を捉えるとき、そこに浮かび上がるのは、互いの死者追悼に敬意を払いつつ、過去を喚起することを避け続け、結果として戦争の記憶を風化させてきた日本人とフィリピン人の姿である。

しかし、戦争の過去を共有あるいは想像できる者には理解できるだろう「遺恨」は、過去を共有せず想像できない者には永遠に聞こえることがない。このことは、慰霊とは別の回路による記憶の保存や共通了解の創出・維持をめざした営みが伴わない限り、戦争の記憶というものが、世代と国境を超えて継承されていかないだろうことを示唆している。

21世紀に入り、私たちは、海外戦没者慰霊の営みがほぼ終わった地点から過去をふり返っている。戦跡巡拝を担った世代は高齢化によって海外慰霊の営みからほぼ退場した。アジア各地の海外慰霊碑は見る影もなく荒廃しつつある[32]。遺族・戦友会のなかには、慰霊碑を国内に還送している例もあるという。こうして海外慰霊の時代が終わりをつげた現在明らかになったことは、過去の戦争をめぐってこれほど多くの人々がこれほど頻繁にまた長期にわたって旧戦場と本土(日本)を往来するという、人類史上もまれな営みであったにもかかわらず、遺族・生還者のあいだでさえ、戦争(フィリピン戦)の記憶は無惨なまでに風化してしまっているという現実である。

忘れてしまうことができるのは、やはり権力のある側であろう。朽ちた慰霊碑を前にして、かつて沈黙に友好的な発話の意味をこめてきたフィリピンの人々は、それが全く意味を失ってしまったことを知ったとき、日本人に対して新たな――おそらくは幾分、以前よりは攻撃的な――対話の方法を模索しなければならないことに気がついているのではないか。

 メモラーレ・マニラ1945

小論で検討した「お詫び」と「厚意」の互恵関係の実践がおよそ不可能な場所がマニラ市旧中心部である。戦後日本人がアジア諸国にどのような顔を見せてきたか、どのように対話をしてきたかという問題を考えるうえで、一九四五年二月の「マニラ戦」から未だに回復できていない人々の問題はどのように考えれば良いだろうか。

2005年2月12日、「マニラ戦」の民間人犠牲者を追悼し、記録を後世に伝えることを目的に10年前に発足した市民団体「メモラーレ・マニラ1945」の主催で、「マニラ戦」非戦闘員犠牲者の追悼ミサが、イントラムーロス構内のサン・アウグスチン教会で行われた。毎年2月の追悼ミサは、1995年に慰霊碑が建立されてから2005年で10周年を迎えた。

1994年から95年にかけて客員研究員としてフィリピン大学で一年間を過ごした私は、慰霊碑の除幕式とイントラムーロスのマニラ大聖堂で行われた第1回の追悼ミサを見学する機会があった。このときはフィデル・ラモス大統領(当時)が除幕式に参列し、マルコス政権崩壊時に大きな役割を果たしたフィリピンで最高位のカトリック教会聖職者であるハイメ・シン枢機卿(2005年死去)が執行した追悼ミサでは、「マニラ戦」被害者の遺族・生存者の代表がその思いを訴える祈祷文を詠みあげ、その痛切な内容に私は深い感動を覚えた。しかし当時、阪神大震災の報道一色に染まっていた日本のメディアは「マニラ戦」50周年を一顧だにしなかった。3月にオウム真理教・地下鉄サリン事件が発生すると、もはや50周年報道は吹き飛んでしまった感があった[33]。

それから10年が経った。「マニラ戦」60周年はふたたび日本では一顧だにされなかった。また、フィリピンの新聞報道によれば、政府・議会の関係者さえ追悼ミサには姿を見せなかったという(アメリカ、EU大使は列席[34])。その一方、「マニラ戦」の記憶回復の動きはこの10年の間に徐々に進んでいる。有力紙には2月を中心に体験記録が取材・寄稿により掲載されるようになった。日本大使館が毎年2月を日比友好月間と定めてマニラで多くのイベントを企画することには以前から批判があったが、今年は「マニラ戦」遺児から抗議の投書が大手紙に掲載された[35]。これまで北東アジアの「歴史問題」摩擦にほとんど関心を示してこなかった各紙オピニオン欄にも、日本政府に対する批判が、ぽつりぽつりと現れるようになっている。

「マニラ戦」はその戦場の記憶に一歩でも立ち入れば、南京大虐殺と同様の衝撃や怒りで人々の感情を沸騰させる事実に充ち満ちている。だからこそ、フィリピン戦後社会の喪失感の起点とさえなっている「マニラ戦」の記憶回復の方向性は、これから重大な意味をもつ可能性がある。

メモラーレ・マニラ1945の関係者や、その文献、行事を観察して、私は、この人々の感情が60年を経た今まだ疼いていることを感じる。阪神大震災以来この10年のあいだに、私は、自分自身も含めて、日本社会が、災害や犯罪の犠牲者・被害者・遺族に共感する力を高めてきたことを良いことだと感じている。それが「歴史問題」において国境を超えた海外の被害者が対象になったとたん、どうしてこれほど私たちの感性は鈍くなってしまうのであろうか。

彼ら・彼女らは、すでに指摘したように日本軍の蛮行だけでなく米軍の砲撃下で、場合によっては数週間も封じ込められた極限状態において、あらゆる種類の戦争の不条理を凝集した経験をした。そのような人々が戦後日本人に求めるのは、同情でも謝罪でもなく、何かの手がかりのようなものである。当時の日本人の行動も十分に説明がついているわけではない。今後それが何か確実に明らかになるということはあり得ないだろう。それでも人々は何故あることがこのように起きたのかということについて、手がかりを求めている。そのような人々の問いかけに付き合ってゆくことが、経験の風化にはつながらないある種の対話と和解への手がかりになるのかもしれない。

本稿が検討してきた戦争の記憶をめぐる比日関係史は、戦争の過去に拘束された現在として「戦後」をとらえ、そのような意味での「戦後」を終わらせようとしてきた日本人の営みに、フィリピン社会がある種の互恵関係への期待をもって協力してきた歴史として捉えることができるだろう。しかし、両者の和解の行き着く先にあった戦争の記憶の無惨なまでの忘却が互恵関係そのものの基礎を流失させてしまった現在、むしろ求められているのは、より質の高い和解と心の平和を得ることができるような、そして終わらせることを目的としないような「戦後」をあらたに作りなおし、生きなおす営みであるに違いない。そのような意味において、フィリピンにおけるメモラーレ・マニラ1945や、日本・フィリピン双方の若い世代による新たな和解プロジェクトの方向性に光明を見いだして行きたいと思う[36]。

 

[1]  “Excerpts of Speeches Delivered  by Delegates at the Japanese Peace Treaty Conference,,”  New York Times, Sep.8, 1951.

[2] 西村熊男『日本外交史二七 サンフランシスコ平和条約』鹿島研究所出版会、1971年、267頁。

[3]  「サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説」外務省条約局法規課『平和条約の締結に関する調書Ⅶ』、118~122頁。

[4]  信夫清三郎『戦後日本政治史Ⅳ』勁草書房、1965年、1328頁。

[5]  「戦後五〇年とフィリピン」『季刊・戦争責任研究』第11号(1996年3月)、50~54、75頁。

[6]   『朝日新聞』2001一年9月5日、2頁。

[7]  拙著『フィリピン独立問題史』龍渓書舎、1997年、第7章。

[8]  第1共和国は1898年にスペインからの独立を宣言したが、米西戦争でスペインからフィリピンを割譲されたアメリカにより弾圧された。第2共和国は日本軍占領したでホセ・P・ラウレルを大統領として発足した(1943~45年)。

[9]  ①→②は権威主義への移行、②→③は民主制への復帰、そして現在は大統領制から議院内閣制への移行のための憲法改正が議論されている。

[10]  たとえば現大統領グロリア・マカパガル・アロヨ大統領のホームページを見よ。http://www.op.gov.ph/biography.asp

[11]  近年の代表的戦史として、Richard Connaughton, John Pimlott, and Duncan Anderson,Battle for Manila. London : Bloomsbury , 1995.一日毎に戦闘・残虐行為のあとを記録した次の書も広く読まれている。Alfonso J. Aluit, By Sword and Fire: The Destruction of Manila in World War II 3 February – 3 March 1945. Manila : National Commission for Culture and Arts, 1994.

[12] 戦死者統計は以下を参照。Robert Ross Smith, United States Army in World War II. The War in the Pacific: Triumph in the Philippines (Washington DC, 1963), pp.306-307.

[13] 吉川洋子『日比賠償外交交渉の研究』勁草書房、1991年、386~387頁。

[14]  Battle for Manila, p.121, 174.

[15]  Evelyn Berg Empire and Stephen H. Mette, A Child in the Midst of Battle : One Family’s Struggle For Survival In War-Torn Manila . CA: Satori Press, 2001; Purita Echevaria de Gonzales, Manila : A Memoir of Love & Loss. Alexandria , NSW: Hale & Iremonger Pty Ltd, 2000; Pedro M. Picornell, The Remedios Hospital 1942-1945: A Saga of Malate. Manila: De La Salle University Press, 1995; Fernando J. Manalac, M.D., Manila : Memories of World War II. Manila : Giraffe Books, 1995; Nick Joaquin, ed., Intramuros. Manila : Philippine Daily Inquirer, 1988.

[16] 林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年。

[17] 永井均「日本・フィリピン関係史における戦争犯罪問題――フィリピンの東京裁判参加をめぐって」池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』岩波書店、2004年、289―326頁。

[18]  人見潤介インタビュー。

[19] 拙稿「賠償と経済協力――日本・東南アジア関係の再形成」後藤乾一編『岩波講座東南アジア史第八巻 国民国家形成の時代』岩波書店、2002年、283~304頁。

[20]FRUS 1951, VI: 233.

[21] 第33国会、衆議院本会議、12号、1959年11月27日。

[22]厚生省社会・援護局監修『援護五〇年史』1997年、578~579頁。

[23]拙稿「追悼の政治――戦没者慰霊問題をめぐる日本・フィリピン関係――」池端雪浦、リディア・N・ユー・ホセ編『近現代日本・フィリピン関係史』岩波書店、2004年、367~408頁。

[24]  “Apology Made by the War Widow,” Manila Times,  Oct. 26, 1963, p.13.

[25]  戦跡巡拝記録については、靖国偕行文庫が最大の収蔵数を有している。個人の戦争加害加担の告白例としては、バタンガス州リパ虐殺事件について、友清高志『狂気』徳間書店、1985五年。

[26]  衣川貞「子の遺した言葉のままに―ボントツクを訪ねる―」、土谷直敏編『山ゆかば草むす屍』私費出版、1965年、73~80頁。

[27]『日本遺族通信』186号(1996年7月)。

[28]友清、206頁。

[29]村田三郎平『戦野の詩 証言・比島作戦の綴り』彩流社、1985年、182~183頁。

[30]『朝日新聞』1983年5月7日、朝刊、1頁。

[31] Washington Post, November 11, 1986, p. A23.

[32] 「朽ちる海外慰霊碑」『朝日新聞』2004年7月3日夕刊。

[33]  拙稿「戦後五〇年とフィリピン」、50~54、75頁。

[34]    Ma. Isabel Ongpin, “Ambient Voices,” Today, Feb. 19, 2005.

[35]  “ Not in February! – IF memory serves, it was in February 1986, during the first…” Manila Bulletin, Feb.22, 2005.

[36] このような視点から注目できる若い世代の動きとして下記を参照。「フィリピンと日本をむすぶビデオメッセージ・プロジェクト」(http://bridgeforpeace.jp/)。