東日本大震災・福島原発事故と歴史学研究会

東日本大震災・福島原発事故と歴史学研究会

揺れ始めたとき、私は東京都国立市(一橋大学キャンパス)に居ました。そのときは原発事故を知る由もありませんでしたが、いつまでも、いつまでも、いつまでも終わらない揺れに、たぶん生まれて初めて「大自然への畏怖」を感じた経験でした。あのとき私が事務局長をつとめていた研究者団体・歴史学研究会の震災・原発事故への対応についてまとめた文章を震災5周年を期して掲載します。(写真は2012年1月1日、名取市閖上・日和山からの景色)

東日本大震災・福島原発事故と歴史学研究会

 初出出典:「東日本大震災・福島原発事故と歴史学研究会」『歴史学研究』909号(2013年9月):47-49頁。

中野 聡

歴史学研究会(歴研)は、東京に本拠があることの意味をしばしば問われてきた団体である。東日本大震災・福島原発事故でもそれが問われたと思う。1932年12月、関東大震災の9年後に歴研が発足して以来、東京で震度5を記録した地震が起きたのは1985・1992・2005年の3回だけで、いずれも震動は短く被害は軽微で局地的であった。地震学的には「静穏期」の東京で歴研はその委員会活動を展開してきたことになる[1]。歴研事務所は、1973年以来、神田神保町の誠華ビルに落ち着いて38年を経ていた。私は4年間続けた事務局長を、次の大会でようやく小野将氏に交替できることが決まったばかりであった。

2011年3月11日は「委員会のない金曜日」であった(歴研委員会は隔週金曜日の開催)。東京都23区の震度は5強であり、現存する世代の誰も日本では経験したことがない長時間の震動が東日本全体を襲った。近隣では東京観光専門学校の卒業式が行われていた九段会館のホール天井が崩落して2名の女性が亡くなり多くの怪我人が出た。誠華ビルは増築部分の接合部に亀裂が入り、度重なる余震で接合部の隙間からは空が覗いた。歴研はすぐそばの靖国通りに面した新事務所に移転することになった。

翌週3月18日の委員会は中止した。余震が続くなか被災した事務所は使用できない。仮に別の場所を確保できても、原発事故が深刻化して、「計画停電」に加えて都内放射線量の急上昇(3月15日)、金町浄水場での乳児摂取基準を超える放射性ヨウ素検出(3月22〜23日)などの報道で静かな恐怖が首都圏を包むなか委員会を開くべき状況ではなかった。震災後初めての委員会は、4月1日、契約直後の新事務所に必要最低限のものを運び込んで開かれた。

4月8日には歴史資料ネットワークの要請に応じて「緊急四者協」を新事務所で開催した。「四者協」とは、協力関係にある歴研・日本史研究会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会4団体の会合であるが、阪神・淡路大震災以来、災害時の歴史資料救援活動の全国への拡大をリードしてきた歴史資料ネットワークも参加する事実上の「五者協」になって久しかった。同じ機会に「資料救援問題緊急会合」もあわせて行うことになり、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワークをはじめ各被災地の「史料ネット」関係者、地方史研究協議会、日本歴史学協会、学術会議、文化庁の被災文化財等救援事業担当者など多くの関係者が集まり情報を交換した。5月の歴研大会では「東日本大震災に関する昼休み緊急集会」を開いて各被災地の史資料救援活動についての緊急報告を聞く場を設けることになった。本誌でも緊急特集「東日本大震災・原発事故と歴史学」を組むことが決まった。2010年度の委員会は残る任期の全力をあげて「震災・原発事故」対応に取り組んだと言って良かった。

2011年5月21日、青山学院大学で開催された歴研大会初日の総会で採択された総会決議「「3.11」後の歴史学研究会の責務」は、このような取り組みのなかで歴研が「東日本大震災と原発事故が提起する諸問題を歴史学の課題として受けとめ、今後の研究活動・科学運動等の指針とすべく採択したもの[2]」であった。要約すればその内容は、(1)「災害をめぐる歴史研究の成果の社会への還元」に歴研が「十分寄与して来られたか」の自問と今後への決意、(2)「災害からの市民生活の再建と復興という課題と不可分の取り組みとして歴史資料等の救援や災害・復興記録の収集・保存」を位置づけて歴研が取り組む決意と協力の呼びかけ、(3)「被爆国の歴史学界として」の科学技術・核問題への歴研の取り組み不足への反省と今後への決意、(4)原発事故に関する「政府・東電・専門家・マスコミ等による情報公開のあり方」に対する懸念の表明、および関係機関が「情報を迅速かつ体系的に公表し、すべての記録を保存・公開」することの要望、以上の4本立てからなっている[3]

大会に先立つ2011年5月13日、委員会は総会決議原案「3・11後の歴史学関係者の責務」を歴研ウェブサイト上で公開し、会員メーリングリスト(ML)および震災直後に開始したツィッター(Twitter)の歴研公式アカウント(@rekiken)を通して広く意見を募った。初めての試みであった。原案は現在も閲覧可能である[4]。原案と総会決議を比較すると分かるように、全体の構成は同じだが、内容・文体にはかなりの修正が加えられている。原案の公表後「多くの団体・個人から貴重なご意見が寄せられた[5]」ことをふまえて、委員会は総会に修正案を提示し、さらに総会での議論をへて修正を加えた総会決議を採択したのである。

原案公表から総会決議までの約一週間、歴研としては恐らくかなり久しぶりに熱い議論が巻き起こった。その経緯を限られた紙幅で述べることには無理がある。また、寄せられた熱い意見・批判の多くは公開を前提としていない。そこで奥歯に物が挟まった言い方にはなるが、このときの委員会の対応について、2点に絞って私の記憶と感想を述べておきたい。なお、原案は委員会の議論を踏まえて中野が(1)・(2)・(3)を、研究部長の安村直己氏が(4)をまとめ、文章の修正では池享委員長と栗田禎子編集長の役割が大きかったと記憶する。

原案を読んだ歴史学と縁のない私の友人は、「ジャッジメンタル」だという感想を漏らした。たしかに原案は断定的かつ懺悔調で「我々」の災害史研究や原発問題への取り組み不足を反省する内容だ。災害史や原発問題に取り組んできたと自負する歴史研究者からは「我々」などという言葉で勝手に一緒くたにするなというストレートな反発があった。「被災者と連帯する」という「陳腐」な語り口の全体に歴研のいわゆる東京中心主義の傲慢を感じた人も少なくなかったと思う。委員会としては原案の「我々」とは団体としての歴研のこと(のつもり)であり、歴研の災害史・原発問題への取り組み不足は『総目録[6]』を引けば一目瞭然だった。その反省が真意だったのだが、決議案の題名は「歴史学関係者の責務」であり、そのようには読まれないことに私たちは遅ればせながら気がついた。題名を「歴史学研究会の責務」に変更し、本文も内容・文体を大幅に修正して、ほぼ採択された決議のようになった。

もうひとつの問題はもっと深刻だった。歴研が本当に言いたいのは「政府・東電の情報隠し」問題であり、決議案で歴史研究者としての反省を述べた(1)〜(3)、あるいは災害史・史資料救援問題に言及した(1)・(2)は、(4)「政府・東電の情報隠し」批判あるいは(3)・(4)原発・核問題という「政治問題」の「枕」に利用されているに過ぎないという批判の数々が、災害史・史資料救援問題の関係者、東北被災地やその事情にくわしい人々から寄せられたのである。NPO法人宮城歴史資料保全ネットワークは2011年5月17日付で決議案の撤回を求める意見書をウェブサイトに公表した[7]。総会決議案が被災地の歴史研究者の少なくとも一部から激しい反発を受けたことは明らかだった。一方、批判は多くの委員にとって意外かつ心外であって、強く反発する委員もいた。

このとき寄せられた批判と総会決議にかける委員会の意気込みの間には、単なる誤解を超えた対立点があったと思う。たとえば、各地の史資料保全活動は地元の寺社・自治体関係者などを含めて多様な考え方や利害をもつ人々が政治的関心や党派を超えて支えている。そのような活動の担い手からすれば、対立や分断を持ち込むような政治問題を争点化することに反対するのはある意味で当然のことだ。一方、聖域やタブーを認めずに「現代が提起する課題と向き合いつつ過去を問うこと(総会決議)」をめざす歴研の委員会とすれば、この期に及んで原発・核の問題について沈黙するというのは、ほとんどあり得ない選択肢であった。

東京では巨大津波の被害よりも原発事故ばかりに目が向いていると被災地で想像されがちなことも、東京に居ては分かりにくいことだったと思う。全てを呑み込み仙台平野を駆け上がる黒い巨大な津波の空撮映像。その夜の紅蓮の炎に包まれた気仙沼の光景。次々と中継されたこれらの映像をリアルタイムで見た者の誰が津波災害を軽く受けとめられただろうか。またそれ自体が検証されるべきテーマだが、東京のメディアも津波映像を繰り返し放送しており、必ずしも原発報道一色で番組が編成されていたわけではなかった。

その一方、委員の大半は首都圏に居住しており、その生活者としての実感がとりわけ「原発と情報」の問題に踏み込んだ決議案(4)につながったことも事実だったと思う。海外の原発事故報道に容易にアクセスできるソーシャル・メディアとインターネットの時代に、「直ちに健康に被害を及ぼすことはない」ことばかりを強調する政府・東電の発表と国内メディアの自主検閲ぶりは人々の疑心暗鬼を誘うばかりであった。日本気象学会が2011年3月18日付で「放射性物質の影響を予測した研究成果の公表を自粛するよう求める通知」を出していたという報道の衝撃も大きかった[8]。文理を超えて学問の自由と覚悟が問われている。この問題が歴研の取り扱うべき範囲を超えているという批判に対しては承服しがたいというのが委員会の一致した意見であったと思う。

総会まで数日を残すばかりで、調整の時間も手段も限られるなか、私は対応に苦しんだ。事故・災害にせよ戦争被害にせよ、深刻な災厄の経験は人と人の間に溝をつくり、場所と場所の間に境界を立ち上げる。対応に苦慮しながら私は阪神・淡路大震災の頃を思い出していた。東京生まれで東京育ちの私が神戸大学教員となり、在外研究でフィリピン滞在中の1995年1月17日に震災が神戸を襲った。私は一時帰国して被災地を目の当たりにし、フィリピンに戻ってからもNHK国際放送が伝える被災地からのニュースにかじりついた。ところが地下鉄サリン事件(同年3月20日)が起きたとたん、ぱったりと情報が入らなくなった。まだインターネット黎明期でフィリピンではNHK国際放送が頼りであった。震災時に神戸にいなかった後ろめたさから余計に神戸という場所にこだわる私は怒りを覚え、メディアの東京中心主義を不信の目で見た。地下鉄サリン事件が東京そして日本社会に与えた深い衝撃について私が少しでも考え始めたのは、だいぶたってからのことである。この経験から、事務局長としての私は東京と東北被災地(そのなかでも福島と宮城以北)という場所の違いがもたらす溝に最大限配慮すべきだという立場でこの問題に臨んだ。

総会前日の朝。安村氏から委員会MLに原発事故をめぐる「宮城県」と東京の「温度差」について「実に単純な事実」が分かったというメールが届いた。原案を批判する意見をすでに寄せていた仙台の大学教員で、安村氏も私も知るある委員経験者と意見を交換した結果の報告だった。被災地は地震直後に停電して、通電後テレビが見られた避難所でも悲惨な被災映像を見るのがつらく、また物資の調達などに忙しくテレビを見る意欲も余裕もなかった。それゆえ友人そして恐らく宮城県被災者の大半は原発事故の映像をリアルタイムでは見ていないというのだ。これでは原案(4)が「情報統制や情報発信の規制」を通じた「社会の統制の強化やファシズム化」を憂慮しても、そもそも震災当時の被災地にはいかなる情報も届きにくかったのだし、震災後2ヶ月たった時点でも、日常を取り戻すこと・生活を再建することに追われる被災者には問題意識が共有しづらい。このような状況では、東京で抱かれている懸念こそが決議案の本音であって「被災地との連帯などは枕詞でしかない」と被災者の目に映ってのも無理はない。「私にはようやく分かってきました」と安村氏は述べ、被災者が「原発の爆発シーン」を「リアルタイム」で見ていなかったという「単純な事実」を「見落としていた」ことついて「生活者としても歴史研究者としても、私には想像力が欠如していました」とメールの末尾につけ加えた[9]

 

このようにそれぞれの経験から私と安村氏は東北被災地と東京の原発問題をめぐる「温度差」を痛感するに至り、一種の妥協案として、災害史・史資料救援問題と原発問題をめぐる決議の前後半を分離して別々の決議にしてはどうかという意見に傾いた。池委員長と栗田編集長は決議の一体性を重視した。総会前日の昼間に新事務所に集まった私たちは、文字通り激論を交わした。最終的には委員長の決断で、内容・文体を大幅に修正したうえで構成としては原案を維持して4つの論点を一体のものと見なす決議案が総会に出されたのである。

 

総会では大きな異論は出ず、若干の修文を経て決議は採択された。総会決議の発表後、原案公表直後に激烈な言葉でその内容を批判するメールを寄せた東北被災地の会員のひとりから「支持できる内容になった」との声が寄せられた。「ジャッジメンタル」な原案を歴研としての自省と今後への決意を語る内容に修文したことが、前後半の決議を分離しなくとも理解を得られることにつながったと私は感じた。歴研の歴史の一コマとして後年どう評価されるかを予測することはできないが、現時点(2013年7月)から見ても、やはり震災と原発事故は一体の複合災害であったし、研究者団体として「原発と情報」の問題に大胆に踏み込んで記録の保存・公開を求めたことには大きな意義があったと思う。正しい判断を示した池委員長・栗田編集長に敬意を表したい。以来、歴研がこの決議をふまえて本誌特集・書籍出版・大会企画などを通じて「震災・核災害の時代」と向かい合うという、これまでにない取り組みを展開していることは、あらためてつけ加えるまでもない。

 

総会後の全体会「近世・近代転換期における国家−地域社会関係の再検討」は、「女性の経験」に注目することを通じて、通常「移行」期と捉えられている近世から近代への時代を、「変化の到達点をすでに知っている者の視点」から遡及的に認識するのではなく、「変化の方向性を見通せないままに現在の困難と将来の不可測性を生きざるをえなかった」人々の「沈黙の淵へと追いやられて」しまった具体的経験から捉えることを課題とした[10]。「全体会討論要旨」によれば、最後の質問者として発言した大門正克氏は、長谷川まゆ帆氏・横山百合子氏の両報告を「近代的主体の形成等の枠組みに当てはめ演繹的に理解されがちな身体に関わる問題を、徹底して歴史過程に即し検討」するという問題提起として受け止めたと評した。この発言を受けて長谷川氏は「言葉や概念が先行してしっくりこない場合には、立ち止まって突破できるものは何かを考えている」と応じ、横山氏は「演繹的なものの考え方を止める力は、史料の一言一句」にこだわる日本近世史研究が培ってきた志向の中にあると応じた[11]

 

討論要旨に具体的には書かれていないが、研究部長・全体会企画者として最後に発言した安村氏は、そのなかで先に紹介した仙台の友人との意見交換に触れて、東北被災地と東京の間の──被災地の停電は広く知られていたのだから──当然気がついていて良かった震災経験の大きな差異を「見落としていた」ことへの自省を語っている。安村氏の突然の言及に一瞬虚を突かれた聴衆もいたことだろう。しかし私には、この発言で忘れられない全体会となった。史料批判を通じて他者理解の難しさと向かい合うことが仕事である歴史研究者の私たちに常に求められているのは「演繹的なものの考え方を止める力」だ。そのことが胸に染みた瞬間だったからである。

[1] 防災科学技術研究所「地震の活動期・静穏期」『地震予知連会報』66号(2001年8月):554-561頁。

[2] 池享「2011年度大会報告によせて」『歴史学研究・増刊号』885号(2011年10月):1頁。なお、ここで原案を「4月末に委員会が提案」とあるのは池氏の記憶違いである。

[3] 「会告「3.11」後の歴史学研究会の責務(総会決議)」『歴史学研究』881号(2011年7月):61頁。

[4] http://rekiken.jp/hssj2011resolution_draftproposal.pdf

[5] 池「2011年度大会報告によせて」。

[6] 歴史学研究会編『歴史学研究 別冊 総目録・索引』青木書店、2007年2月。

[7] http://www.miyagi-shiryounet.org/20110517ouropinion.html

[8] 「「放射性物質予測の個別公表控えて」 気象学会が通知、研究者に波紋」『朝日新聞』2011年4月2日夕刊2頁。

[9] このメールについては、その内容を一部引用することについて安村直己氏に了解していただいた。

[10] 「2011年度歴史学研究会大会報告主旨説明」『歴史学研究』879号(2011年5月):52頁。

[11] 「全体会討論要旨」『歴史学研究増刊号 近世・近代転換期における国家−地域社会関係の再検討─2011年度歴史学研究会大会報告─』885号(2011年10月):25頁。