世界史を15分間考える

(2019年6月5日改訂) 2009年4月で、高校の社会科科目として「世界史」が誕生してから60周年を迎えます。このことに関連して、門外漢ながら、科目・世界史と学問としての世界史の関連を以下で論じました。この書物は非売品ですので、許可をいただきまして公開させていただきます。 「世界史を15分間考える」人文会編『人文書のすすめIV 人文書の見取り図と基本図書』人文会(2008年10月20日):59-72頁。 注記:2010年代には社会科世界史の起源をめぐって『歴史学研究』誌上等で論争が展開しました。本稿は教科の歴史に関してまったくの門外漢として尾鍋輝彦氏の一文を引用したに過ぎませんことをお断りしておきます。 世界史を15分間考える 1 世界史の光と陰 この「15分」シリーズ、教育学や社会学など「○○学」なら読者は当然その入門エッセイを期待する。しかし、たとえば「15分でわかる世界史」などというタイトルをつけたら、受験・学習参考書紹介の類と間違われかねない。これは冗談ではない。試しにアマゾン・ドットコム(日本語版)で、キーワードに「世界史」と入れて書籍を検索してみるとよい。私がやったときには、最初のページに表示された16冊のうち15冊までが受験参考書や学習図書の類で、学術(一般)書と呼べるものは一冊しかなかった(川北稔『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書、一九九六年)。それだけ日本における世界史とは、教科・受験科目と深く結びついている。そして、校長の自殺者さえ出してしまった二〇〇六年の高校世界史(必修科目)未履修問題は、教科・受験科目としての世界史が、仕方なく学ばざるを得ない「嫌われ者」の暗記科目だと多くの人々に見なされている現実を社会に知らしめた。こんなことではいけないと歴史研究者も歴史教育者も危機感を募らせている(南塚信吾『世界史なんていらない?』岩波ブックレット、二〇〇七年)。 その一方で、日本は外国史研究がきわめて盛んな国である。毎年刊行されている史学会編『回顧と展望』を読むと、日本史だけでなく世界諸地域の古代史から現代史までが、かなりの程度、満遍なく研究されていることが分かる。また、刊行が始まった歴史学研究会編『世界史史料』(全一二巻、岩波書店、二〇〇六年〜)は、五〇〇名を超える研究者が三〇〇〇点ちかい世界諸地域・諸時代の史料を原典から直接日本語に翻訳して解説を付すという何とも壮大な試みである。こんなことが可能な国は、英語圏以外ではそうそうあるわけではない。もちろん、単なる外国史の寄せ集めを世界史とは呼ばない。この点でも、第二次世界大戦後の日本の歴史研究者・教育者は、地球上の人類史上の出来事のたんなる総和ではないような世界史とはいったい何なのかという問題──世界史認識──を、むしろ先駆的に問うてきた。各社が出版する高校世界史教科書もその蓄積を反映してきたのであって、学習者や受験者には評判の悪い暗記事項の山に見えるテキストも、その記述の正確さやバランス・工夫、全体の論理構成、新しい研究動向の摂取といった点では、実は国際的に見てもかなり高い水準にある。 「嫌われ者」の暗記科目としての現実と、内容の豊富さや水準の高さという世界史の陰と光の対照を、いったい我々はどう捉えたらよいのだろうか。15分では決して分からない世界史について、15分間だけ考えてみよう。 2 「社会科世界史」の誕生 戦後日本における世界史の始まりを考えるときに必ずと言ってよいほど引用される文章がある。このあと世界史が辿ってゆくことになる歩みの光と陰の両面が集約された、まことに預言的な文章だ。一つの怪物が、一九四九年の日本に突如として現れた。社会科世界史という怪物が。文部官僚も、西洋史家も、はたまた日本史家もこの怪物の正体がつかめない。ましてこれと取り組む運命におかれている高等学校の教師と生徒にとっては,難解なことゴルギアスの結び目のごとくである。しかしよく近づいて見ると,この怪物はなにか出現する必然性をもっているようだ。もっとよく調べて見ると、これこそわが国の教育に新しい希望を与えるものであり、歴史学を正しい道に導くものであるようだ(尾鍋輝彦編『世界史の可能性』東京大学協同組合出版部、一九五〇年、序文)。 教育課程審議会の決定により高等学校社会科に世界史が設置されたのは、一九四九年四月のことだ。言うまでもなく日本は連合国占領下にあり、GHQ民間情報教育局からの示唆を受けて、従来の日本史・東洋史・西洋史ではなく日本史と世界史という科目編制による社会科歴史教育が始まった。驚くべきことに歴史学者はこの決定にまったく関与しなかったという。しかも日本のほとんどの大学では、一九九〇年代の教養部廃止の時代まで日本史・東洋史・西洋史の三分野制度を全学教育科目でも史学科の講座制度でもおおむね維持してきた(かくいう著者も、一九九〇年に神戸大学教養部の西洋史講師として職を得たのだった)。このように、日本における世界史教育の成立を主導したのは、トップダウンで決まった高校教科としての「社会科世界史」の成立だった。しかしそれは、戦後日本の歴史学にとって天啓のごとき意味をもったのである。占領軍も文部省も教育課程審議会も、さらには研究者も教育者も、はたして「社会科世界史」がいかなるものであるべきかについて定見があったわけではなかった。尾鍋輝彦の言葉は、「社会科世界史」の出現に対する大学研究者や現場の教師たちのとまどいを率直に証言している。同時にそれは、世界史が、その答えを模索すべき「ビッグ・クエスチョン」として、また希望や可能性さえ感じさせる大きなインスピレーションとして日本の歴史家たちの心を捉えたことを意味していた──草創期の「社会科世界史」をめぐる現場の教師や研究者たちの取り組みについては、いずれもウェブサイト上で閲覧できる鈴木亮の遺稿(http://home.att.ne.jp/wave/natsu/ryo/sekaisi1.htm)や吉田悟郎の「自分史年譜」(http://members.jcom.home.ne.jp/lerrmondream/jibun.htm)がその様子や雰囲気を生き生きと伝えている。 とまどいと同時に希望をもって歴史研究者・教育者が世界史という「問い」と取り組めたのは、そもそも「社会科世界史」が、戦後日本の民主主義と平和主義と深く結びついた進歩的でリベラルなプロジェクトであるという合意が広く存在していたからだった。文部省の指導要領でさえ、すでに戦後教育が「反動」の時代を迎えていた一九五〇年代後半において、「社会科世界史」の目標を「世界史の発展において、日本の占めてきた地位を明らかにするとともに、日本の民主主義社会の発展および世界平和に対する日本民族の責任を自覚させることが、高等学校における世界史教育の究極の目標である」(一九五六年指導要領)としていた。「社会科世界史」は、戦前の歴史教育・研究を窒息させた皇国史観の否定を前提として、独善を排し、日本人はもっと世界各地の歴史を学ぶべきだという素朴な啓蒙主義的合意を基礎に構想されたのである。 しかし、日本史・東洋史・西洋史の三分野制度を自明の前提としてきた日本の大学に「西洋史家、東洋史家はいても、世界史的把握をなしうる研究者はいなかったし、その理論も、方法も皆無」にひとしかった。そんな状況のなかで模索の先頭に立ったのは、一九四九年四月から待ったなしに授業を始めなければならなかった現場の教師たちであった(土井正興『世界史の認識と民衆』吉川弘文館、一九七六年)。一九五二年に社会科世界史教師となった吉田悟郎は、翌年の研究集会で「東洋と西洋のからみ合いの中で歴史を見ていかなくてはならない。いままでの西洋中心の見方ではだめだ。特に近代現代における東洋と西洋との有機的関係をつかまねばならない」と発言している(前掲「自分史年譜」)。大学の歴史研究者たちが西洋と非西洋の関係性を具体的な研究主題として追求するのは、はるか後のことだ。吉田の発言は、東洋史と西洋史の垣根を外すことを職責とした高校世界史の教師であればこそ可能だったと言えるだろう。 3 戦後歴史学の世界史認識 こうして「社会科世界史」教育という実践的な要請を背景にして、十分とは言えないものの現場の高校教師と大学教員の一定の協働のもとに、歴史教育者協議会や歴史学研究会などの場を通じて、一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本の歴史学は、世界史をどう語るのか──世界史認識──という問題と取り組んできた。 そこでは戦前から日本の大学アカデミズムで大きな影響力を占めてきたマルクス主義的な発展段階論が濃淡の差こそあれ世界史認識の前提となっていた。文部省学習指導要領(一九五六年)さえもが共有した「世界史の発展」は、日本の戦後歴史学の大前提──歴史は人類の進歩と幸福の増進に向けて発展してゆくもの、してゆくべきもの──を表現する言葉であった。歴史発展の法則性は「科学的真理」として探求できるのであり、「科学的歴史学」は歴史の発展の正しい側に立つべきである。端的に言えばそれは、支配階級・資本主義・帝国主義などに対抗して歴史を動かす主体としての「人民」の側に歴史学が立つことを意味していた。そして、占領期には独立の回復をめざす「日本国民」として、主権回復後は安保条約を批判しアジア・アフリカ諸国の民族独立運動と連帯する「日本国民」として、国民国家や民族を肯定すべき前提として歴史を語ることは、むしろ前向きのことだとも考えられていた。このように戦後日本の歴史学の主流(戦後歴史学)は、民主主義と平和主義の道を歩む「日本国民」を前提とした「左翼・進歩勢力」としての立場性(ポジショナリティ)を鮮明にした学問だった。世界史認識はそのようなポジショナリティと結びついた、戦後歴史学にとって最も重要なプロジェクトのひとつだったのである。 このポジショナリティの問題をとことんまで突き詰めて、また戦後歴史学のプロジェクトとしての世界史認識について先駆的な構想を示した歴史家が、上原専禄だった。上原自身はドイツ中世史研究を専門とする歴史家であったが、敗戦を境に世界史認識の問題へと「駆り立てられ」、「社会科世界史」の発足後は体系的な世界史像をもった世界史教科書の編纂に熱心に取り組んだ。そして、江口朴郎らの大学研究者、吉田悟郎らの高校世界史教師とともに実教出版から『高校世界史』を出版し、その不合格になった改訂版をもとに一九六〇年に岩波書店から『日本国民の世界史』を出版するなど、世界史教育と世界史理論の構築に全力を注いだ。 『日本国民の世界史』という書名が示すように、上原が主張する世界史認識は、「日本の国民大衆」が要求している「十分主体的で、しかも客観的な日本国民の世界史の見方」である。それは、日本の大衆が戦後、体験的に捉えてきた生活の問題にそくしたものでなければならないのであり、生活者としての日本人にとって意味がある(レレヴァントな)世界史は、人類発生以後の地球上の出来事の総和としての人類史とは区別されなければならなかった。具体的には、生存(平和と安全保障)、生活(貧乏追放)、自由と平等(圧政と差別克服)、進歩と繁栄(忍従と停滞打破)、独立(民族の主体性回復)という五つの課題に応答するものでなければならないというのが、上原の世界史認識の前提であった。 このような前提に立った上原の世界史像は、世界を諸地域に区分したうえで(13地域を構想した)、それらが一体的世界にまとまり始めた時点、すなわち、15世紀末に始まる大航海時代以降のヨーロッパ人による世界諸地域の支配の始まりに「世界史の起点」を求めた。そして「世界史の構造自体が、東洋と西洋との、あるかかわり方の変遷というもののうえに築かれている・・・・・・東洋と西洋のかかわり方のなかから、世界史がまさに世界史として出てくる」というように、大航海時代以降の西洋と非西洋世界の関係性こそが世界史の主軸であると構想した(引用は一九六九年のNHKラジオ第二放送の録音原稿。上原専禄著作集二五『世界史認識の新課題』評論社、一九八七年)。 上原の「世界史の起点」論は、一九七四年にアメリカで初めて出版されたイマヌエル・ウォーラーステインの近代世界システム論(イマヌエル・ウォーラーステイン著・川北稔編訳『近代世界システム論Ⅰ・Ⅱ』岩波書店、一九八一年)と明瞭に重なり合うもので、その先駆的な意義は高く評価できる。それはまた、先に引用した一九五三年の吉田悟郎の発言の延長線上にあることは明らかだし、さらには「ヨーロッパがヨーロッパであるために、かれは東洋に侵入しなければならなかった・・・・・・抵抗を通じて、東洋は自己を近代化した・・・・・・ヨーロッパは、東洋の抵抗を通じて、東洋を世界史に包括する過程において、自己の勝利を認めた」と語った竹内好の近代史観とも響きあう(竹内好「中国の近代と日本の近代(一九四八年)」『日本とアジア』ちくま学芸文庫、一九九三年)。日本人の世界史認識とは、敗戦をふまえてあらためて東洋と西洋と日本の関係性をどう捉え直すかという日本土着の思想課題に対する応答でもあったのである。 4 世界史認識の後退 上原専禄は遺稿「世界史の起点」で、激烈な「世界史ジャーナリズム」批判を展開している。一九六〇年代後半、出版業界は「世界史ブーム」に沸いた。しかし、上原によればそれは経済の高度成長を背景とする「生活のゆとりと閑暇」あるいは海外旅行の自由化などを背景にした「面白ければなんでもよい」という大衆の「享楽主義的世界史関心」を機敏に察知した「出版資本」の企みであった。上原は遺稿のなかで、世界史像の自主的創造という志を忘れ果て、「大衆の嗜好」に適するような「消費財にまで商品化した世界史文献の大量生産と大量販売」に走っている「出版資本」と学者たちを、当時刊行されていた大手出版社の世界史シリーズを名指しで糾弾している(「世界史の起点」『世界史認識の新課題』)。 この厳しい警句を遺稿に記した上原が没したのが一九七五年のことであった。土井正興はその翌年、『日本国民の世界史』をのぞけば「今までひとつも体系的な世界史の叙述」が日本の歴史家によってなされていないと嘆いた(「世界史再構成の課題」『世界史の認識と民衆』)。それから三〇年以上がたったが、日本の歴史家による「体系的な世界史の叙述」という課題の実現はますます遠のいている観がある。ウォーラーステインの世界システム論やE・ホブズボウムの世界史叙述など「一九六五年以来、世界史の研究が急速に進んできている」という海外の歴史学の状況(南塚信吾『世界史なんていらない?』)とは対照的だ。世界システム論を先取りするような世界史像の上原構想があったことを考えると、それは非常に惜しいことのようにも思われる。 日本における世界史認識への関心が後退した理由のひとつには、一九八〇年代以降の外国史(とりわけ西洋史)研究において、マルクス主義歴史学に見られる体系性や構造性、社会経済史的関心への関心が後退して、社会史・心性史といった領域に関心が傾斜したことがあげられるだろう。発展段階論的な歴史像や進歩史観に対する支持も──社会主義体制の崩壊に先立って──歴史研究者のあいだで失われていった。上原があげた『日本国民』としてのポジショナリティを構成する五つの課題──生存、生活、自由と平等、進歩と繁栄、独立──もまた、良かれ悪しかれその切実さが多くの人々にとって揺らぎ、失われていった。経済大国化、右派ナショナリズムの台頭、批判的な国民国家論の洗礼を受けて、日本国民という前提が歴史教育・歴史研究のなかでもつ前向きの意味は大きく揺らいだ。こうした変化は、「日本国民が必要とする世界史認識」という課題そのもののレレヴァンスを、日本人のあいだでも、研究者のあいだでも著しく後退させてしまったのである。 ただ、それを単純に嘆かわしいと考える必要はない。上原が主張した「見方としての世界史、つまり現実を見ていく、その見方の一つとして」の世界史のあり方(「世界史の見方」『世界史認識の新課題』)は、時代や地域などの条件により変化する。その意味では、現代日本における世界史とは、上原の時代ほどに「直接的に日本の問題を解決するため」の世界史ではなく、「もう少し懐深く」すなわちより多様で自由な発想が歴史家に許され、また求められる時代になっている(南塚信吾『世界史なんていらない?』)。上原が強調した歴史家のポジショナリティそのものを取り巻く状況が変化したのだから、「十分主体的で、また客観的な」問題関心の方向が変わることもまた当然のことなのだ。 5 私(個)の世界史 世界史認識への関心を後退させたひとつの要因が、「出版資本」をも大いに潤した「社会史ブーム」であるとしたら、その火付け役となった歴史家・阿部謹也が上原の教え子であることは、一見、皮肉なことと受け取られるかもしれない。『ハーメルンの笛吹き男──伝説とその世界』(平凡社、一九七四年)は上原のまさに最晩年に出版された。 しかし阿部は、彼独自の社会史研究に着手した原点が──「それをやらなければ生きてゆけないと思われるテーマを探すこと」という恩師・上原の一言にあったと述べている。阿部の場合、「生きてゆけないテーマ」とは、彼自身の「生活のなかにあった」。それは、時間意識、空間観念、モノをめぐる人間と人間の関係などにおいて、自分の生活意識をとりあえず規定しているヨーロッパ近代と、意識の深層にある前近代と向かい合うことであり、それゆえにヨーロッパ近代との対比におけるヨーロッパ中近世研究は自分にとって「それをやらなければ生きてゆけない」ほどの意味をもったのだという(阿部謹也「ヨーロッパ・原点への旅 時間・空間・モノ」『社会史研究』1、一九八二年一〇月。下記でも同じことを述べている。『阿部謹也自伝』新潮社、二〇〇五年)。 場合によっては私的とさえいえるような関心や領域を主題化できる社会史という方法は、共通項が多い人類学や、大いに異なる政治史・経済史とのあいだで切磋琢磨し交差・交流しながら、今もなお歴史研究者を惹きつける視点であり続けている。それは、良かれ悪しかれ、現代日本人の生活にそくした切実な関心の在処を反映していると言わなければならないのであり、それが阿部のように歴史家としてのポジショナリティをとことん追求した結果であるならば、上原が志した歴史学と相矛盾するものでは、もちろんないのである。 上原は遺稿の冒頭で、世界史像というものが、どんな場合であっても結局は「ある一定の主体の、ある仕方における主観的被造物に他ならない」と述べている。これは歴史叙述において完全な構成主義の立場に立つことを明言するものであった。さらに、一方で「日本国民の世界史」を唱導しつつ、上原は「十分に主体的で、また客観的」でありさえすれば、「その主体は、具体的・経験的に存在している一人びとりの個人ですらありうる」と考えていた。すなわち、その関心が生活にそくして切実でありそれを説明できるのなら、「私(個)の世界史」も可能であると考えていたのである(「世界史の起点」)。 そういう意味では、世界史は、むしろ単一の著者が語るべきものなのかもしれない。考えてみれば海外では世界史は巨人的な著者たちの書き下ろしとして語られることが多い。世界史の叙述には強い問題意識に支えられた強力なナラティヴが必要なのだろうか(ジャワハルラール・ネルー著、大山聡訳『父が子に語る世界史』全八巻、みすず書房、二〇〇二〜二〇〇三年。アーノルド・J・トインビー著、下島連ほか訳『歴史の研究』全二四巻、経済往来社、一九六六〜一九七二年。エリック・ホブズボーム著、河合秀和訳、『二〇世紀の歴史──極端な時代──』上・下、三省堂、一九九六年)。阿部とともに「社会史ブーム」をもたらした網野善彦による『日本社会の歴史(上)』(岩波新書、一九九七年)も、アジア大陸北方の側から日本列島を逆さに見た地図を冒頭におき、日本国家の成立史を東アジア世界史のなかに布置した独創的な世界史=日本史叙述が魅力的である。 6 他者理解と対話の世界史 どちらかといえば消極的な──発展段階論の否定や社会史の隆盛による世界史認識への関心の後退という──理由とは異なり、もっと積極的な立場から戦後歴史学の世界史認識を乗りこえてきた現代歴史学の営みとして、「周辺(マイノリティ)からの視点」をあげることができる。 大航海・征服の時代以降の「近代世界の一体性」を強調する上原構想や近代世界システム論には、どうしても「西洋批判の西洋中心史観」とでも言うべき傾向がある。近代ヨーロッパの世界征服の意義を批判的にであれ強調することが、結果として被征服地・周辺の視点を曖昧にしてしまう。アジア・アフリカ・第三世界の「人民」との連帯を謳いながら、その実、歴史叙述としては周辺(マイノリティ)を単なる犠牲者として描くだけで本格的に検討できていないという問題がそこにはあった。 戦後歴史学の成果を積極的に継承しながらも、西洋中心史観の本格的な克服を課題として周辺(マイノリティ)からの新視点を積極的に打ち出したのが『新しい世界史』(全一二巻、東京大学出版会、一九八六〜一九八九年)だった。同シリーズにはインド、メキシコ、中央アジア、アフリカ、パレスチナ、ハンガリーなど、一九七〇年代までの日本の歴史学では必ずしも本格的に取り上げられて来なかった地域・国・主題について、それぞれ研究史を塗り替える書き下ろし作品が上梓された。そのこと自体が、一九四九年の「社会科世界史」の設置以来、西洋中心史観の克服、東洋史・西洋史の二分法の克服を課題としつつ展開してきた世界史教育が、ある種のコスモポリタニズムを戦後世代に植え付け、多様な関心をもった層の厚い外国史研究者を育んできた成果を示すものだった。さらに同シリーズの巻頭言は、その課題意識を次のように述べていた。一体化された近代世界において、「文明としての西欧近代」によって「世界史」を独占されてしまった人々も、それゆえに歴史を喪失してしまったわけではけっしてない・・・・・・それぞれの歴史を、近代世界のいたるところに生きたさまざまな人々の生活にそくして、具体的に捉え、それらを下から積みあげていくこと、そのような作業が新しい世界史への可能性を切り拓くことになるであろう(「発刊にあたって」小谷汪之『新しい世界史1 大地の子(ブーミ・プトラ)―インドの近代における抵抗と背理』東京大学出版会、一九八六年)。 近代において周辺化され他者化された人々を単純に犠牲者化することなく、その生存の声に耳を傾けようとするこの視点が追求しているのは、「われわれ」の生活にそくした「日本国民の世界史」とは対照的に、他者の生活にそくした世界史であり、他者の論理に対する関心、他者理解への欲求である。その意味で、オーストラリア先住民の世界史認識に迫った保苅実の研究は、『日本国民の世界史』の正しい意味で対極に位置する作品である(保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』お茶の水書房、二〇〇四年)。支配・被支配の双方向・相互浸透的な側面に着目した複眼的な帝国史研究や(『岩波講座 近代日本と植民地』全八巻、一九九二〜一九九三年。『イギリス帝国と二〇世紀』全五巻〔既刊四巻〕、ミネルヴァ書房、二〇〇四〜二〇〇七年。)、周辺・マイノリティの側の歴史経験あるいは帝国の側の植民地経験を主題化した作品も(栗本英世・井野瀬久美恵編『植民地経験──人類学と歴史学からのアプローチ』人文書院、一九九九年。中野聡『歴史経験としてのアメリカ帝国──米比関係史の群像』岩波書店、二〇〇七年)、こうした他者理解の世界史の系譜に位置づけることができる。 冷めた見方をすれば、こうした他者の論理に対する関心は、一九八〇年代にいたって経済大国として一定の中心性と豊かさを獲得した日本という余裕のある国だからこそ可能な姿勢だったと言えるかもしれない。国の豊かさが、欧米だけでなく周辺のアジア諸国や第三世界・「南」の国々を調査研究の対象とする日本人歴史研究者を増加させた結果だとも言えるだろう。しかし、他者理解の増進が、現代日本人にとってまさしく生活にそくした切実な課題であることもまた多言を要しないのである。 この点に関連して、『日本国民の世界史』(一九六〇年)の時点ではおよそ見落とされていたが、一九八〇年代以降の「日本国民」の歴史認識をめぐるもっとも切実な課題は、歴史認識をめぐるアジア諸国との対話であった。考えてみれば、かつて上原が述べた日本国民の生活にそくした課題には、アメリカからの自立をめざす「独立」はあっても、周辺諸国との共存に必要な歴史認識としての日本国民の戦争責任や植民地主義の問題は組み込まれていなかった。それは、一九六〇年代安保闘争的な課題意識の時代的制約・限界だった。 ここでまず問題になったのは、日本の歴史教育において、日本史のない世界史・世界史のない日本史が長年教えられてきた状況を変えるという課題であり、さらに周辺アジア諸国との間で歴史認識をめぐる歴史家・歴史教育者の対話を育んでいくという課題であった。西川正雄や吉田悟郎らによる「比較史・比較歴史教育研究会」は、この問題に最も早くから取り組んだ歴史研究・教育者グループで、一九八四年には「東アジア歴史教育シンポジウム」を開催、歴史教科書問題をめぐる国際摩擦の時代を通じて対話を重ね、歴史家・歴史教育者の相互理解の増進と、日本の歴史研究・教育者の問題意識の刷新にも大きく貢献してきた(比較史・比較歴史教育研究会編『黒船と日清戦争──歴史認識をめぐる対話』未来社、一九九六年)。 7 世界史教育は救えるか 二〇〇五年、西川正雄はアメリカの歴史学雑誌『ラディカル・ヒストリー・レビュー』への寄稿で、過去二〇年に日本の歴史教科書の内容が大幅に改善され、日本史教科書への世界史的観点の組み入れや、世界史教科書における西洋史偏重の是正と世界諸地域の歴史への目配りによって、国際的にも多くの国を凌ぐ水準に達しているとの自負を述べた(Masao Nishikawa, “A Specter is Still Haunting: The Specter of World History,” Radical History Review, 91 (2005): 110-116.) 西川は、二〇〇八年一月、病で急逝する直前まで『世界史史料』全一二巻の編纂に文字通り心血を注いだ。その「刊行の言葉」で西川は、「社会科世界史という怪物」が現れて以来、高校教師の現場での工夫、高校教師・大学教員からなる教科書執筆者のたゆまぬ努力によって世界史教科書・世界史教育が充実発展してきたことを述べたうえで、この広範で膨大な史料集が可能となったのは、「『近代化』の過程で欧米に関する知識を吸収しようとし、さらに第二次世界大戦後、民族解放運動の展開をきっかけとして世界のさまざまの地域に関心を広げるとともに、従来からの分野で史料に基づく研究を深めたという独自の体験をもつ日本の歴史学界なればこそ」だったと述べている(西川正雄「刊行の言葉」歴史学研究会編『世界史史料10』、二〇〇六年)。 このように日本の世界史教科書・世界史研究(または世界史的視野に立った歴史研究)がそれなりに誇れる水準に達しているにもかかわらず、なぜ世界史教育は「いらない」と言われる「嫌われ者」なのだろうか。「社会科世界史」があってこそ今日の世界史があるのだから、耳を傾けるべきは現場の世界史教師の声である。 小川幸司は、歴史はたんに事実と解釈だけでなく、歴史を素材として人間のあり方や政治のありかた、ひいては自分の生き方について考察する「歴史批評」という知の営み・考える楽しみこそが魅力なのに、世界史の暗記科目としての現状がその楽しみを教育現場から奪っていると批判する。その根源にあるのは、教科書記述内容の暗記を前提とする大学入試の政治力学であり、この仕組みが変わらない限り、研究や歴史認識の進歩の成果が教科書に反映されたとしてもそれは暗記事項の増加しか意味しない。だから暗記を問う入試を全廃し、論述を全面的に導入し、教科書も大幅な増ページを前提に記述内容を大きく変えるべきだと小川は主張する(小川幸司「世界史という『妖怪』がアメリカを徘徊している」『アメリカ史研究』三一号、二〇〇八年)。 大学入試の政治力学に問題の根源があることは否定できない。だとすれば、小川の提案が近い将来、日本の世界史教育と世界史入試において実現する可能性は残念ながら低いと言わなければならないだろう。しかし、小川が教育現場で追求しようとしている「歴史批評」が、まさに上原専禄が必要だと考えていた歴史を考えることのアクチュアリティ(自分にとってのかけがえのなさ)を学ぶことである以上、その機会が奪われている世界史教育の病んだ現状を放置することは許されない。小川がいみじくも語るように、歴史家・歴史教育者はそのような知を楽しんだからこそ「今の生業」があるのだから。 参照文献Masao Nishikawa, “A Specter is Still Haunting: The Specter of World History,”…

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