アーリントン国立墓地とフィリピン(1)「メイン号のマスト」メモリアルから
アーリントン国立墓地には、フィリピンをめぐる征服戦争と植民地の過去が刻まれています。その広大な墓苑から、歴史を刻んできた幾つかの記念碑・墓標を紹介します。
アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。(目次に戻る)
Mast of USS Maine Memorial, Section 24 & Charles Dwight Sigsbee (1845-1923), Section 2
まず訪れるべきは、無名戦士の墓などがある墓苑の中心部でひときわ目立つ、国旗掲揚台のようにも見える碑です。米西戦争の引き金となったメイン号爆沈事件のメモリアルです。(Arlington and the Filipinos Map)
1898年2月15日、泥沼化するスペイン植民地キューバの独立戦争をめぐって米西関係の緊張が高まるなか、合衆国政府が自国民の保護を目的として派遣した戦艦メイン号は、ハバナ港停泊中に突如爆沈して全乗組員の4分の3を超える260名あまりが死亡しました。
米軍が海外でこれほど多くの死者を出したのは当時としては空前の出来事でした。そして、スペイン政府の一貫した否定にもかかわらず、「メイン号を忘れるな!Remember the Maine!」のウォー・クライは、部数競争に明け暮れる新聞各紙の扇動的な報道ですでに高まっていた反スペイン世論を激昂させ、爆沈原因も不明のままに開戦論を一気に勢いづかせました。事件から1ヶ月あまり後の3月末、海軍調査委員会は、誰が仕掛けたのかは分からないとしながらも「敷設水雷による外部の爆発」による破壊を爆沈の原因とする報告書を発表(スペイン海軍説、キューバ独立革命勢力の謀略説などがあった)、4月11日、ウィリアム・マッキンレー大統領は合衆国議会に戦争権限の付与を求める大統領教書(いわゆる戦争教書)を提出、開戦承認の上下両院合同決議をへて、4月21日をもって、米西両国は戦争状態に入りました。
このように米西開戦の決め手となったメイン号爆沈事件のメモリアルは、実は、ふたつあります。ひときわ目立つのは、1915年創建の「メイン号のマスト」メモリアルです。直径10メートル、高さ2メートルほどのドーム状の台座に――1911年にハバナ港から引き揚げられた――メイン号のマストを真っ直ぐに立て、台座の周囲には犠牲者の名前が刻まれています。
この「マスト」メモリアルの裏手の木蔭にあって現在ではあまり目立たないのが、「メイン号の錨」メモリアルです。1899年12月、それまでハバナに仮埋葬されていた乗員163名の遺体をアーリントン国立墓地に集団で改葬する盛大な葬儀が行われました。その翌年、当時まだ回収できていなかったメイン号本体の錨のかわりに、ボストンの海軍工廠に半世紀あまり放置されていた由来の詳らかでない黒光りのする大きな錨を、乗員墓地に隣接した一角に据えて作られたのが、このメモリアルです[i]。
メイン号爆沈事件は、それが戦争開戦のきっかけになったにも関わらず、事件の真相が不明とされてきました。マッキンレー大統領の「戦争教書」さえ、事件の真相については「事実の確定が待たれる」と述べていました[ii]。
1970年代半ば、米海軍技官チームが行った研究は、メイン号の爆沈は船内事故だった可能性が強いと指摘しています。
「原子力潜水艦の父」として知られるハイマン・リコーバー海軍大将は、1974年、メイン号爆沈の原因がまだ特定されていないことや過去の調査の不透明な経緯を指摘する記事を読み、ともに海軍技官で構造力学の専門家イブ・ハンセンと海面下衝撃波の専門家ロバート・プライスに、残された過去の調査資料を現代科学の眼で徹底的に再検討するよう依頼しました。これに対して両名は、外部機雷説を明確に否定して、爆沈原因を――当時、頻発していた――燃料用石炭庫の自然発火による火災が、隔壁一枚で隔てられた隣室の火薬庫に引火・爆発した可能性が強いとする報告書を提出しました。この報告に基づいて、1976年、リコーバーが海軍省から出版したのが『メイン号はどのようにして破壊されたか』という研究論文です。1994年、同論文は海軍研究所から再出版され、近年ではメイン号爆沈の有力な原因説として紹介されるようになりました。しかし、船内火災説がメイン号戦没者の名誉を傷つけるものだという感情的な反発も強く、今日でも公式には、爆沈の真相は「謎」とされています[iii]。全くの余談ですが、今は遠い昔の学部生時代、油井大三郎ゼミの最初のゼミ報告のとき(ということは1981年の夏でしょう)、私はこの研究論文を取り上げたのでした。国会図書館に納められていたのです。
さて、仮に船内事故だったとすれば、メイン号の「安全と無事」を保障できなかった責任は、スペインではなく、安全管理に瑕疵があったチャールズ・シグズビー艦長を筆頭とするメイン号乗組員にあったことになります。ところが生存者の退艦を指揮した「功績」を称えられたシグズビーは、毎年のメイン号事件追悼式を司り、アーリントン国立墓地のメイン号メモリアル周囲の道は「シグズビー・ドライブ」と名づけられ、1923年の没後、高位軍人の墓がならぶ2区画に埋葬されたのでした。
メイン号メモリアルとフィリピンの間には、それがアメリカのフィリピン征服につながる米西戦争の開戦原因となった事件の碑だいう以上に、フィリピンとの縁があります。
実は、メイン号「マスト」メモリアルには、その円筒形の台座のなかに、深さ9メートルほどまで掘り込んだ地下納骨所があります。第2次世界大戦中の1944年8月に死去した自治政府フィリピン・コモンウェルスの大統領マヌエル・ケソンの遺体が、ここに仮安置されました。
ケソン大統領は、日米開戦後の1941年12月末、日本軍のマニラ侵攻を目前にして、フランクリン・ローズベルト大統領の――実際には断ることができない――強い要請を受けて、不承不承、在極東米陸軍USAFFE司令官ダグラス・マッカーサーとともにマニラ湾口のコレヒドール島要塞に脱出し、その後さらに極秘裏にフィリピンを脱出、1942年5月、コレヒドールの米軍が降伏した直後にサンフランシスコに到着してコモンウェルス亡命政府をワシントンDCに営みます。しかし、米軍のフィリピン再上陸を目前に控えた1944年8月1日、持病の肺結核が悪化して死去しました。
一方、隣の「錨」メモリアルには、錨を囲む街角の小公園のような敷地の両隅に、二基、子供が跨るのにちょうど良いような旧式の小さな臼砲が置かれている。刻印を見ると19世紀初頭セビリアの製造だが、これらはマニラから運ばれてきたものです[viii]。
1898年5月1日、米西戦争の火蓋が切って落とされたのは、戦争の原因となったキューバではなく、極東のスペイン植民地フィリピンのマニラ湾における海戦でした。この海戦でデューイ提督の率いる米海軍アジア船隊は、無傷のままスペイン船隊の全艦艇を撃破ないし拿捕して完勝します。勝利を報じた新聞が一面大見出しに「メイン号事件への復讐が始まった![ix]」と掲げたように、当時、マニラ湾海戦の勝利はメイン号爆沈への報復として捉えられました。そういうわけで、デューイが戦利品としてマニラから持ち帰った臼砲が、メイン号メモリアルの添え物として置かれたわけです。
やがて「マスト」メモリアルの地下に葬られることになるマヌエル・ケソンは、このとき19歳。1878年、ルソン島東部タヤバス州(現アウローラ州)の太平洋岸の町バレルで、ともに小学校教員でタガログの父とスペイン系メスティーソの母のあいだに生まれ、ドミニコ修道会の援助を得てマニラのサント・トマス大学法学部に学ぶ苦学生でした[x]。
最晩年にアメリカで口述した回顧録『グッド・ファイト』で、ケソンは、砲声を聞き、マニラ湾を望むイントラムーロスの寄宿舎から海岸に飛び出して海戦の様子を目撃したこと、そして海戦でスペインが惨敗し、やがてマニラが米軍に占領されてスペイン国旗が降ろされたときに感じた「深い悲しみ」を率直に語っています[xi]。スペインの血を引き、幼い時からスペイン人修道士のもとで学び、修道会の援助により大学に学んだ彼にとって宗主国スペインは愛着の対象であり、アメリカは遠い存在でした。そして米比戦争が勃発すると、「我々の信頼を裏切った」米軍に対してケソンは迷うことなく独立革命軍に身を投じ[xii]、革命軍将校として米軍と戦火を交えることになります。
この後、くわしくは、『歴史経験としてのアメリカ帝国』をご覧いただければ幸いです。
[i] “Above the Maine’s Men.” Boston Globe, May 25, 1900, 7.
[ii] John Bassett Moore. A Digest of International Law. 8 vols. Vol. VI. Washington, D.C.: G.P.O., 1906, 211-223.
[iii]Hyman George Rickover. How the Battleship Maine Was Destroyed. Annapolis, MD: Naval Institute Press, 1994.
[iv] アルフレッド・T・マハン(著)麻田貞雄(訳)『アルフレッド・T・マハン』研究社出版、1977年。セオドア・ローズベルトを中心とした極東における米西戦争の開戦準備については下記を参照。Oscar M. Alfonso. Theodore Roosevelt and the Philippines, 1897-1909. Quezon City: University of the Philippines Press, 1970, 18-25.
[v] Studs Terkel. “The Good War” : An Oral History of World War Two. New York: Pantheon Books, 1984.
[vi] Theodore Roosevelt, “Fellow-Feeling as a Political Factor (Published in The “Century,” June 1900)” in The Strenuous Life; Essays and Addresses (New York: The Century Co., 1900). http://www.bartleby.com/58/4.html.
[vii] Moore. A Digest of International Law.
[viii] Eugene L. Meyer. “The Maine Event.” Washington Post, June 12, 1998, N06.
[ix] “Great Sea Victory for America! Vengeance for the Maine Begun! Spain’s War Fleet Burned and Sunk!” Chicago Tribune, May 2, 1898, 1.
[x]自伝によれば、ケソンの両親は二エーカー(〇・八ヘクタール)ほどの水田で自家用と他の食物との交換用の米を作りながら月にそれぞれ二四ペソの給料を得ていた。バレルのように貧しい地域では相当な収入であったが、その経済力は、マニラのエリート子弟の寄宿校サン・ファン・デ・レトランでの学費で貯蓄を使い果たす程度だったようである。植民地エリート政治家のなかでは、ケソンは、相対的には庶民的な出自に数えることができる。Manuel Luis Quezon. The Good Fight. New York and London: D. Appleton-Century Company, 1946, 1-21.
[xi] Ibid., 37.
[xii] Ibid., 41.
Recent Comments