メモラーレ・マニラ1945追悼式(2011.2.)参列者に見るマニラ戦体験
(写真に付した番号を参照してください)。 1.ミグエル・ペレス・ルビオ氏(元・大統領府儀典長):1945年2月12日、家族の全員をルビオ邸にて日本軍に虐殺された(本人はゲリラとして市外で戦闘、難を逃れた)。 2.故フアン・ロチャ(元・スペイン大使):母親が米軍砲撃で破片を受けて死亡、親族11名が日本軍に殺害された。 3.ローデス・モンティノーラ(極東大学総長):2月9日、本人をのぞく家族全員が自宅に乱入した日本兵に殺害された。 4.イサベル・カーロ・ウィルソン(元・スペイン大使):ベイビュー・ホテル事件(多くの女性が監禁・レイプされた)で難を逃れた目撃者。 5.ジェンマ・クルス・アラネタ(1964年ミス・インターナショナル):母カルメン・ゲレロ・ナクピルとマニラ戦を生きのびるが、日本軍憲兵隊に拉致された父・祖父らクルス家 男性全員が殺害された。
De La Salle Massacre (12 February 1945) マニラ市街戦・ラサール学院での虐殺事件(1945年2月12日)
マニラ市街戦(マニラ戦)において多数発生した日本軍による虐殺事件・戦争犯罪行為のひとつに、都心部タフト通り沿いに現在もあるデ・ラ・サール大学(学院)で発生した虐殺事件があります。この事件を一例にして、マニラ市街戦における日本軍の戦争犯罪の記録がどのように作られ、当時、日本人に伝えられ、そして今日マニラにおいて記憶されているかを示してみましょう。 まずは意外なところから話を始めます。 1949年、長崎の原爆の悲劇を人々に伝える一冊の本が出版されました。長崎医科大学助教授・永井隆博士の随筆集『長崎の鐘』がそれです。「戦後最初のベストセラー」とも言われ、同書に着想したサトウハチロー作詞・古関裕而作曲の歌謡曲『長崎の鐘』は同年大ヒットして、翌年には映画化もされました。
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