De La Salle Massacre (12 February 1945) マニラ市街戦・ラサール学院での虐殺事件(1945年2月12日)

De La Salle Massacre (12 February 1945) マニラ市街戦・ラサール学院での虐殺事件(1945年2月12日)

マニラ市街戦(マニラ戦)において多数発生した日本軍による虐殺事件・戦争犯罪行為のひとつに、都心部タフト通り沿いに現在もあるデ・ラ・サール大学(学院)で発生した虐殺事件があります。この事件を一例にして、マニラ市街戦における日本軍の戦争犯罪の記録がどのように作られ、当時、日本人に伝えられ、そして今日マニラにおいて記憶されているかを示してみましょう。

まずは意外なところから話を始めます。

1949年、長崎の原爆の悲劇を人々に伝える一冊の本が出版されました。長崎医科大学助教授・永井隆博士の随筆集『長崎の鐘』がそれです。「戦後最初のベストセラー」とも言われ、同書に着想したサトウハチロー作詞・古関裕而作曲の歌謡曲『長崎の鐘』は同年大ヒットして、翌年には映画化もされました。

しかしこの『長崎の鐘』の出版は占領軍GHQによる許可が必要で、GHQは同書に付録として連合軍司令部諜報課編纂の「マニラの悲劇」を合冊して出版することを義務づけました。したがって「戦後最初のベストセラー」を読んだ日本人は、否応なしにこの「マニラの悲劇」を目にせざるを得なかったのです。「マニラの悲劇」序文は、次のように述べています。

日本が1937年盧溝橋において、また1941年真珠湾の謀略的奇襲において開始した戦は、ついに日本自身にかえって、広島、長崎市の完全な破壊をもって終わったのである。

全11章からなる「マニラの悲劇」は、マニラ市街戦のさなかに起きた日本軍による残虐行為・戦争犯罪について、米軍の戦犯調査部が作成した宣誓口供書(Affidavit)の集録からなっています。その目次を示しておきましょう。

第1章 スペイン人居住区の被りたる被害
第2章 ラ・サール学校の虐殺
第3章 日本軍によるキリスト教会の破壊
第4章 日本軍による赤十字病院の破壊・看護婦および患者の殺戮
第5章 地下牢における餓死
第6章 日本軍による幼児刺殺および街路上の非戦闘員射撃
第7章 日本軍の婦女子に対する縛手、殴打、殺害の事実
第8章 日本軍による器物への放火、婦女子の焼殺
第9章 日本軍による一般市民の大量虐殺
第10章 日本軍による少女の乳首および幼児の腕の切断
第11章 これらの事実は否認することができない

このうち第2章「ラ・サール学校の虐殺」は、事件の生存者「フラシス・J・コスグレイヴ教父(神父)」という人物が述べた宣誓口供書の日本語訳となっています。その一部(1945年2月12日の出来事)を抜粋してみましょう。

(前略)1945年2月12日、月曜日、昼食をすませた直後、砲弾を避けるために我々は皆建物の南側の階段の下に集まっていた。そこへ二十名の兵士を連れた日本軍士官が入ってきて二人の使用人を拉致し去った。五分後、二人は戻されてきたが、どちらもひどく傷ついていた。ついで士官は何か命令を下した。ただちに兵士たちは、われわれに銃剣を向けはじめた。男も女も子供たちも区別がなかった。若干のものは、辛うじて階上に逃げることができた。兵士たちは彼らを追いかけた。若干の人々は礼拝堂の入口で刺された。他のものは同じく堂内で刺された。誰かが士官に抵抗しようとしても、たちまちピストルで討たれるか、白刃を浴びせられるかに過ぎず、その結果、刺突による負傷のほか、若干の人々はさらに重い傷をうけた。子供たちの中には、二才か三才、またはそれ以下の幼児すらも混っていたが、それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに遭ったのである。刺突を終えると、日本軍は屍体を略奪し、階段の下に投げ込み、積み上げた。生きている人々の上に屍体が重なった。即死したものは多くはなかった。小数のものは一、二時間のうちに息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため次第に衰弱していった。
兵士たちは出てゆき、やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。午後の間、彼らはしばしばわれわれを監視するために入ってき、犠牲者の苦痛を見て笑ったり嘲ったりした。
われわれは、夜にいたるまで、そこにとどまっていた。その間に、負傷者の多くが死んでいった。(後略)

[『復刻版 日本の原爆記録2 長崎の鐘ほか』日本図書センター、1991年]。

krause-19450307-cosgrave-sampleさて、コスグレイブ神父のこの口供書の日付は「1945年3月6日」となっています。事件から1ヶ月も経っていない、事件直後と言って良い時期に口供書の記録が取られていることが分かります。

この「マニラの悲劇」に集録された口供書のもとになっているのは、調べてみると、戦犯調査部のエミル・クラウゼ(Emil Krause)大佐らが作成した報告書(以下、クラウゼ・リポート)であることが分かります。原本の日付はなぜか1945年3月7日となっていますが、内容から見て間違いありません。この口供書は、事件を生きのびたコスグレイブ神父が、当時、避難民収容施設となっていた市内サント・トマス大学においてクラウゼ大佐の聴取を受けた際の供述記録となっています(左写真参照)。[“Report of Investigation of Alleged Atrocities by Members of the Japanese Imperial Forces in Manila and Other Parts of Luzon, Philippine Islands Made by Colonel Emil Krause, IGD, and Lieutenant Colonel R. Graham Bosworth, IGD, Headquarters, XIV Corps.” 9 April 1945. RG331, Entry 1358, Box 1993. National Archives at College Park, USA].

当時、クラウゼ大佐は、米軍野戦病院や市内の病院其の他の収容施設をぐるぐると廻って、虐殺事件の生存者から次々と口供書をとり、記録を作成していました。そのひとつがこれなのです。事件直後なのでコスグレイブ神父の供述は正確であり、供述のなかで何度も「私自身が直接に見聞した日本軍の虐殺事件」は自分が被害者・生存者となったこのラ・サール学院の事件であるとして、詳細な供述を残しているのです。同学院の事件についてクラウゼ大佐が作成した最初の口供書はさらに早い3月2日付で、サン・ラザロ病院という施設に収容されていた生存者の供述を取っています。[Ibid., 35].

MnlRpt#027-coverこのあと、クラウゼ大佐がまとめた報告書を手始めとして、米軍はさらに本格的な戦犯調査を開始します。マニラ戦犯調査部がまとめたラ・サール学院事件の報告書は「マニラ・レポート27号」と呼ばれていて、1945年7月4日付となっており、23の宣誓口供書、33枚の証拠写真が付されていて、ドイツ人カトリック修道士と学院に避難していたスペイン人、フィリピン人あわせて36人が殺害され(遺体を確認)、アイルランド人のザビエル学院長(Egbert Xavier)および4人のフィリピン人が殺害されたと思われると結論しています。[“Manila Report No.27: Massacre of 41 Civilians; Attempted Murder of 15 Civilians, All of Various Nationalities; Rape and Attempted Rape of 4 Filipinos at De La Salle College, 1501 Taft Avenue, Manila, between 7 and 14 February 1945.” RG331, Entry 1214, Box 1110. NACP].米軍のマニラ戦犯調査部は、同様の調査報告をおおむね1947年はじめまでに350件以上まとめています。

この事件の調査報告は、他の多くの報告とともに、山下奉文(ともゆき)裁判や東京裁判に証拠・裁判資料として使われていきます。その結果、山下将軍は事件当時の最高司令官としての責任を問われて死刑判決を受け絞首刑に処されます。その一方、事件の直接の加害者を特定することはきわめて困難で、また加害者の多くは死亡したと推定されたために、1947年頃にはこうした戦犯調査報告の多くが、被疑者を特定しないまま、ケースとしてはクローズされていくことになります。

ラ・サール学院の校舎は現代も当時のままに残っています。修道士や避難民が日本軍に襲われ、逃げまどった階段や礼拝堂も当時のままに残されており、事件の犠牲者を追悼する慰霊の銘板が設置されています。2007年2月12日には、市民団体メモラーレ・マニラ1945が主催する追悼式が同校で開催され、日本軍の残虐行為を描いた戦争画が寄贈されました(下記写真はそのときの様子)。現在も掲示されているかどうかは確認していません。

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