EDSA30 / フィリピン、ピープル・パワー革命30周年

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EDSA30

1986年2月のマルコス政権崩壊からフィリピンが30周年を迎えました。

(ピープルパワー革命と呼ばれたり、EDSA1*とも呼ばれます)*同じくEDSAでの市民の街頭行動がきっかけでエストラーダ政権が崩壊した2001年の政変をEDSA2と呼ぶため。

世界で初めてTV中継された「革命」であり、その後、大量の市民が街頭に出ることで非暴力により政変を起こす一連の民主化革命の先駆となりました。しかしそれは「革命」の名に値するのか?EDSA30周年を迎えた2016年2月、マルコスの長男は副大統領候補として出馬中。イメルダ夫人は現職下院議員。この30年間のうち12年間は、暗殺されたアキノ元上院議員の妻と息子が大統領職にありました。誰しも苦い思いを抱きながら、でもやはりあのときの気持ちは本物だったと思いたい、懐かしい。当時の関係者も含めてフィリピンの人々のEDSA30への思いはさまざまです。

ビセンテ・ラファエル インクワイアラー紙コラム エリート民主主義を復活させるだけに終わったEDSA革命 2016年2月25日

イメルダ夫人、戒厳令体制犠牲者を追悼するミサに間違って出席!フィリピン・スター紙 2016年2月25日

Handog ng Pilipino sa Mundo

<コラソン・アキノ政権発足後、「革命」の成功を讃えるオールスター歌手によるスーパーグループ・ソング「フィリピン人から世界への贈り物 Handog ng Pilipino sa Mundo」が連日フィリピンのTVで放映されました。その画像。「革命」成功の感動と余韻をよく伝えています>

(年表)アキノ元上院議員暗殺事件からマルコス政権崩壊まで

1983.08.21 アキノ元上院議員、米国亡命から帰国。マニラ国際空港で旅客機より国軍兵士に連行直後に射殺される。
1983.08.31 マニラで行われたアキノ葬儀に、雷雨の中、市民200万人が参列。このあと、反政府運動が本格化する。
1983.11.03 アキノ暗殺事件真相究明委員会(アグラバ委員会)活動を始める。
1984.04.14 国民議会選挙で野党が議会に進出、マニラでは圧勝(143議席中41議席)。
1984.10.23 アキノ暗殺事件真相究明委員会(アグラバ委員会)、アキノ暗殺に国軍の関与を認める報告書。
1985.01.23 ベール参謀総長以下、アキノ暗殺事件の国軍関係者が訴追される。
1985.10.16 レーガン大統領特使ラクソールト上院議員、マルコス大統領と会談、政治経済改革を要請。
1985.11.03 マルコス大統領、大統領選挙の実施を宣言。
1985.12.02 アキノ暗殺事件に関してベール参謀総長以下に無罪判決、内外に批判高まる。
1985.12.03 コラソン・アキノ女史(アキノ夫人)、大統領選出馬を宣言、ラウレルに副大統領候補になるよう要請。
1985.12.11 アキノ女史とラウレルの選挙連合が成立。正副大統領候補として出馬。
1986.01.23 ニューヨーク・タイムズ、マルコスの抗日ゲリラ戦歴は虚構とする報道。
1986.02.07 大統領選挙。混乱する開票作業の中で、自由選挙国民運動(NAMFREL)はアキノ女史の圧倒的優勢を伝える。
1986.02.11 レーガン大統領、マルコス大統領再選を容認する演説。
1986.02.15 マルコス与党、議会で当選宣言。アキノ夫人、平和的闘争を呼びかける。
1986.02.22 エンリレ国防大臣、ラモス参謀総長がマルコス政権に反旗。キャンプ・クラメ、アギナルド両基地に篭城。
1986.02.23 政府軍の攻撃から両者を守るため、市民が基地を取り囲む。「EDSA革命」勃発。
1986.02.25 マルコス大統領、米軍ヘリでマラカニアン宮殿からクラーク空軍基地に脱出。翌日、ハワイにむけて出発。