アーリントン国立墓地とフィリピン(2)「フィリピン反乱」

アーリントン国立墓地とフィリピン(2)「フィリピン反乱」

Arthur MacArthur (1845-1912) & Henry Lawton (1843-1899), Section 2

アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る)

米比戦争Philippine-American Warとは、1898年の米西戦争Spanish-American Warパリ講和条約によって、これに先立つ1896年からスペインに対する独立革命が始まっていたフィリピンを併合して、米軍史上はじめての大規模な海外遠征軍により独立革命を弾圧・征服した植民地戦争です。アメリカはフィリピン独立革命政府を認めなかったので、今でも米軍戦史におけるこの戦争の公式名称は「フィリピン反乱」Philippine Insurrectionとされています。

Larawan ng naging Pangulo ng Pilipinas Emilio Aguinaldo1896年に始まったフィリピンのスペインに対する独立戦争は、膠着状態のなかでいったん和約が結ばれ、革命の「最高指導者」エミリオ・アギナルド(写真)ら一行は香港に退去・亡命しました。しかし、キューバ問題をめぐって米西両国の対立が激化するなかで1898年3月にハバナ港で米艦メイン号の謎の爆沈事件が起こると、革命勢力は米西開戦の機運を逃さず、諸島各地にスペイン打倒の戦いを広げます。そして、1898年5月、米西戦争はキューバではなくマニラ湾海戦で開戦の火蓋を切りました(Tour-1)。

弱小のスペイン船隊を難なく撃滅した米アジア船隊は、米本土からの陸軍増派を待つ間、マニラ包囲のためにフィリピン独立革命軍の協力が必要でした。一方、海戦後、香港から米艦で帰国したアギナルドも、領土的野心の不在を語る米政府を頼りました。1898年6月12日、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言します。このとき発表された共和国旗の青・赤・白三色は「星条旗ゆかりの色」で、アメリカの「無私の支援」に対する感謝のしるしだと述べたほどでした(これが現在の独立記念日、共和国旗となっています)[i]。しかしまもなく革命政府の期待は裏切られます。8月、米軍はマニラを単独占領して独立革命軍のマニラ入城を拒みます。さらに翌1899年2月、米上院のパリ講和条約批准審議中に、米比両軍はマニラ郊外で交戦状態に入りました。

正規軍の交戦で革命軍は敗走を重ねます。しかし、ゲリラ戦に移行すると各地でねばり強く抵抗して米軍を苦しめました。アギナルドは1901年3月に米軍に逮捕され、アメリカへの帰順と忠誠を誓い、1902年7月にはセオドア・ローズベルト大統領が「反乱の平定」を宣言しますが、その後も諸島各地で抵抗が続きます。ようやく「反乱平定」が一段落したとして植民地議会が発足したのは、独立革命の正当な後継者を主張して抵抗活動を続けていたマカリオ・サカイ将軍が投降して裁判の末に処刑された、1907年のことです。このあと、メシアニズム的色彩を強めた抵抗運動を続けたフェリペ・サルバドールが逮捕・処刑された1912年をもって、独立革命に連なる抵抗運動はひとまず終息したと考えられています。

米軍の投入兵力はのべ12万にのぼりました。1902年の「平定宣言」までだけでも、アメリカの対外戦争史上、当時としては空前の4200人あまりの戦没者(戦病死を含む)を出しました[ii]。この数字は、アフガニスタン・イラク両戦争における2001年〜2007年10月までの米軍戦死者数にほぼ匹敵します[iii]。一方フィリピンから見ると、この戦争は、独立革命支援の約束を裏切ったアメリカに対する長期にわたる抵抗戦争でした。戦争がゲリラ戦の様相を呈するにしたがって、被害は革命軍から非戦闘員や住民にも拡大し、米軍による住民虐殺事件も発生します。南北戦争直伝の市街地の焼き討ちが諸島各地で行われ、ゲリラの糧道を断つため住民を強制移住させた再集住政策は、南部ルソン(バタンガス州)を中心に住民の生活基盤を破壊しました。さらに革命と戦争の混乱で増悪したコレラなどの感染症やマラリアが諸島各地で爆発的に流行します。米比戦争史家のジョン・ゲイツは、革命と米比戦争によるフィリピン側戦没者を3万4000人、感染症被害による死者を20万人程度と推計しています[iv]

アーリントン国立墓地には、この戦争の過去がはっきりと刻まれています。

IMG_1900当時、フィリピンに派遣された米軍幹部の大半は、南北戦争を軍歴の出発点として、インディアン戦争を戦ってきたベテランたちでした。その代表格とも言えるのが、メイン号艦長シグズビーとともにセクション2に眠る、ヘンリー・ロートン少将(Wiki)です。ロートンは、南北戦争で北軍に17歳で志願して一兵卒から昇進を重ね、戦後はインディアン戦争で活躍しました。とりわけ1886年にアパッチ族のジェロニモ(ゴヤスレイ)酋長をメキシコ領内に追跡して投降させたことで英雄視され、アメリカ社会では知名度抜群の軍人でした。ロートンは米比戦争でも「かつてのフロンティア戦争の戦術[v]」を用いて戦果をあげます。しかし、1899年12月、マニラ東方のサン・マテオで最前線に立って指揮中、狙撃されて死亡します。米側で戦死した最初の将官でした。偶然にも、このときフィリピン側で革命軍を指揮していた人物の名前も英語読みすればジェロニモ――リセリオ・ヘロニモ将軍――でした。

ロートンは、イギリス帝国によるインド人傭兵部隊(セポイまたはシパーヒー)にならって現地住民による傭兵部隊を編成した人物でもあります。のちに米軍直属の植民地人部隊として知られるようになるフィリピン・スカウツPhilippine Scoutsです。ロートンが募兵したのは――パンパンガ州東南部のパンパンゴ語地域マカベベMacabebeで編成された――マカベベ・スカウツで、革命軍の追撃に大きな役割を果たします。おそらくこの事実を念頭において、1922年に地元インディアナ州が拠出して改築された墓碑は、椰子で屋根を編んだニッパ・ハウスを、両側から悲しみに俯く半裸の「原住民」が支える独特のデザインとなっています。実際のマカベベ住民は低地キリスト教徒だから、このような姿はしていません。フィリピーノの恭順(アメリカの勝利)と、アメリカ社会におけるフィリピーノの「原住民」としてのステレオタイプを表現している碑と考えることができるでしょう。

1899年3月31日、米軍は共和国首都のマロロスを占領して焼き討ちにします。その後も米軍は敗走する革命軍をルソン島の中部から北部へと追撃、これに対してアギナルドは、11月、ゲリラ戦への移行を宣言して自らはルソンの山間部に行方をくらませます。ビサヤ諸島では、セブ市、イロイロ市(パナイ島)、糖業の中心地ネグロス島を米軍が次々に占領して軍政を施行します。このように「反乱」平定が着々と進んでいるかに見えたなかで起きたロートンの戦死は、アメリカ社会に大きな衝撃を与えました。

a-macarthur戦争が長期化の様相を呈するなかで、1900年5月、フィリピン派遣軍司令官・軍政総督に就任したのが、シグズビー、ロートンとともに今はアーリントン国立墓地の二区画に眠るアーサー・マッカーサー(Wiki)です。ダグラス・マッカーサーの父でもあります。マッカーサーの軍歴も南北戦争当時17歳で連邦軍(北軍)ウィスコンシン連隊に入隊したことから始まり、その大半をインディアン戦争に費やしています。アーカンソー州リトルロックに赴任中の1880年にダグラス・マッカーサーが三男として生まれています。米西戦争の勃発後、マニラ占領での戦功を認められたマッカーサーは准将に昇任、戦争が長期化の様相を呈するなかで、1900年5月、フィリピン派遣軍司令官・軍政総督に就任して、海外征服戦争を本格的に指揮する米軍史上初めての司令官となります。

司令官就任前の1899年3月、マロロス陥落の際にアーサー・マッカーサーは新聞記者に対して次のように語っています。

反乱者たちと戦い始めた最初の頃、私は、アギナルドの部隊は単なる徒党(a faction)を代表しているに過ぎないと信じていました。ルソン島住民の全体が我々に反抗しているとは信じていなかったのです。しかし、フィリピーノが、アギナルドと彼が代表する政府に忠誠を誓っていることを私は不本意ながらも信じざるを得なくなったのです[vi]

この後、くわしくは、『歴史経験としてのアメリカ帝国』をご覧いただければ幸いです。4000025376

[i] Gregorio F. Zaide. Documentary Sources of Philippine History. 12 vols. Vol. 9. Manila: National Book Store, 1990, 241.

[ii] Allan Reed Millett and Peter Maslowski. For the Common Defense : A Military History of the United States of America. New York; London: Free Press ; Collier Macmillan, 1984, 296-297.

[iii] 2016年4月現在、アフガニスタン・イラク両作戦で6840人に達している。http://projects.washingtonpost.com/fallen/

[iv] Ken De Bevoise. Agents of Apocalypse: Epidemic Disease in the Colonial Philippines. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1995.;John Morgan Gates, “An Experiment in Benevolent Pacification.” (microform : the U.S. Army in the Philippines, 1898-1902, 1967).

[v] “Campaign in Santa Cruz.” New York Times, April 10, 1899, 1.

[vi] Blount. The American Occupation of the Philippines, 1898-1912, 309.