アーリントン国立墓地とフィリピン(6)アーリントンに眠るフィリピーノたち
Francisco Salveron (1910-1998), Section 43
アーリントン国立墓地の「ツァー」も、そろそろ締めくくりです。最初は英雄を殺す反乱者として、次いで恭順する半裸の「原住民」として登場したフィリピーノたちは、やがて、アーリントンに葬られる立場になっていきます。もちろんアーリントンに葬られるのは、原則としてアメリカ人です。しかし、アメリカ植民地期(1898-1946年)を通じてフィリピーノには合衆国市民権は付与されず、またそのほとんどの期間を通じて、アメリカの国籍法上は日系や中国系など他のアジア系移民と同様の帰化不能外国人として、市民権取得(帰化)の権利を与えられませんでした。ケソン(Tour-1)はあくまで外国要人として例外的に仮埋葬されたに過ぎません。アメリカ人として葬られるフィリピーノが現れるのは、市民権をもつ移民二世や、特例帰化権を行使した第二次世界大戦従軍者からとなります。地図に青いピンで示したのが、それらの人々の墓です。
アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。
まず、1998年に亡くなり、43区画に埋葬されたフランシスコ・サルベロン。1944年10月20日、「アイ・シャル・リターン」の約束を果たしてレイテ島ハロの海岸に上陸するダグラス・マッカーサーを捉えた歴史的写真で、右端に写っている人物です。フィリピン陸軍からUSAFFEに編入されたサルベロンは、開戦後、負傷入院していたところをマッカーサーの給仕・用度係に任じられ、その後、戦争中を通じて朝食から身の回りの世話までをして、レイテ島に共に上陸しました。戦後ただちに合衆国市民権を取得したのち米空軍に所属したサルベロンは、ハリー・トルーマン大統領など要人専用機のスチュワードとして1960年代はじめまで活躍し、退役後はメリーランド州に住んで「マッカーサー伝説」の語り部の一人となりました[i]。フィリピン本土防衛のための軍隊に入りながら、アメリカ要人のスチュワードになったことをきっかけにアメリカ人になってしまったサルベロンは、ある意味でフィリピーノ第二次世界大戦ベテランの生き方の典型を示しています。
(フランシスコ・サルベロンが眠る43区画の全景)
Pedro Abubo (1916-2000), Section 59
アブボは、1935年、アメリカ主権下で発足した自治政府フィリピン・コモンウェルスPhilippine Commonwealthが、1946年に予定されていた独立に備えて創設したフィリピン陸軍の少尉でした。1941年7月、フランクリン・ローズベルト大統領はフィリピン陸軍を在比米軍に統合、アブボは新たに編成された米極東陸軍USAFFE(United States Army Forces in the Far Eastユサッフェと発音)の少尉として、日本と戦いました。戦争捕虜として「バタアン死の行進」を経験、捕虜収容所からの釈放後は出身地の北部ルソンでいわゆるUSAFFEゲリラに参加して、戦争末期の一九四五年には北部ルソンの中心都市バギオを日本軍から奪回する戦闘でパープル・ハート(名誉戦傷勲章)を受けている。戦後まもなく合衆国市民権を取得して移民した彼は、その晩年をワシントンDC近郊で過ごした[ii]。写真は、2003年11月11日、フィリピーノ第2次世界大戦ベテラン移民を支援する団体ACFV (American Coalition for Filipino Veterans) がベテランズ・デイに行った追悼行事の際に撮影したものです。
Leonard Leonor (1940-1972), Section 60
60区画は最も新しい死者たちのために用意された場所のひとつで、アフガニスタン戦争・不朽の自由作戦Operation Enduring Freedomやイラク戦争・イラクの自由作戦Operation Iraqi Freedomの戦没者のための真新しい墓石が並んでいます。そこに、1972年10月10日、ベトナムで撃墜されたF4ファントム戦闘機の搭乗者ピーター・クレアリーとフィリピン生まれのレオナード・レオノール両少佐の名が刻まれています。30年以上も前の戦没者の墓がこの真新しい墓群のあいだにあるのは、長くMIA(行方不明未帰還兵)の扱いを受けてきた彼らが、撃墜から29年後の2001年になってようやくベトナムから送還された遺骨のDNA鑑定で死亡が確認され、翌年四月、ここに葬られたからです[iii]。写真は、やはり2003年11月11日、フィリピーノ第2次世界大戦ベテラン移民を支援する団体ACFV (American Coalition for Filipino Veterans) がベテランズ・デイに行った追悼行事の際に撮影したものです。
Nino Livaudais (1979-2003), Section 60
60区画には、2003年4月3日、24歳の誕生日を目前にして、イラク西部で車両検問中ふたりの女性(ひとりは妊婦)による自爆テロに遭遇して死んだニノ・リバデイ二等軍曹の墓があります[iv]。かつてスービック米海軍基地があったサンバレス州オロンガポで「バタアン戦ベテラン」のアメリカ人の父親とフィリピーノの母親の間に生まれ、幼い頃に両親と渡米した彼は、アーリントンに葬られた4番目のイラク戦争戦没者でした[v]。
写真は、2004年11月11日、フィリピーノ第2次世界大戦ベテラン移民を支援する団体ACFV (American Coalition for Filipino Veterans) がベテランズ・デイに行った追悼行事の際に撮影したものです。写真中央でメッセージを読み上げているのは、リバデイ軍曹の母ディビナさんです。弟のウォルターさん(ディビナさんの後ろにいるサングラスの青年)も参列しました。
実はこの日、スミソニアン国立アメリカ史博物館の軍事史常設展示「自由の代償Price of Freedom」がベテランズ・デイを期して新たに一般公開されました。ディビナさん、ウォルターさん、ACFV事務局長のエリック・ラチカさんと展示を見学した私にとって、それは忘れられない経験となりました。
見学中、弟ウォルターさんが興奮した様子で母親ディビナさんのところに駆け寄ってきました。ニノ・リバデイと同じときに死んだラッセル・リピトー大尉の展示があるというのです。ウォルターさんについて行くと、展示フロアの出口に近い、「アメリカの新しい役割New American Roles 1989-」というコーナーに、リピトー大尉が死亡時に着ていた血染めの迷彩服がたしかに展示されていました(写真・左)。駆けつけたディビナさんは、展示パネルを読むと不満の声を漏らし始めました(写真・右)。
かねてディビナさんは、息子の死をめぐって、米軍に対して、このとき爆殺された3人の米兵たちのうち、もっぱらリピトー大尉ひとりが英雄扱いされていることに強い不満をもっていました[vi]。彼らが死んで間もない2003年5月のメモリアル・デイ(戦没兵士追悼記念日)でも、ブッシュ大統領は演説の締めくくりにとくにリピトー大尉ひとりの名を挙げて、彼が識別票の裏面に旧約聖書ヨシュア記の1章9節(「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる[vii]」)を彫っていた信仰心の深い兵士であったことを讃えました。リピトー大尉の両親はホワイトハウスの食事に招待されました。モーゼ死後のユダヤ民族によるイスラエル征服を描いたヨシュア記は、ブッシュ流の対テロ戦争「聖戦兵士」の代表として、いかにも相応しかったのです。
しかしディビナさんは、あのとき――車両検問中に、車から飛び出して泣き叫んでいた妊婦に近づいた兵士たちが自爆テロの犠牲になったとき――妊婦に真っ先に駆け寄ったのは息子だと信じていました。米軍が当時の詳細を明らかにしないことも不満でした。マイノリティ兵士は差別されていると感じていたのです。爆殺されたもうひとりの米兵ライアン・ロングは白人だったから、このことに限って言えば必ずしも差別とは言えないかもしれないのですが、いずれにせよ、不意を衝かれてもろともに爆殺された兵士三人の間に、顕彰されるべき内容の差があるはずもありません。しかし、展示パネルは次のように語っているだけでした。
27歳の米陸軍レンジャー部隊大尉ラッセル・リピトーは、2003年4月3日に戦死した。アーリントン国立墓地に埋葬された最初の戦没者である。
基地職員である自分自身を含めて米軍に献身してきた者として、我慢がならない思いがあったのでしょう、気がつけばディビナさんは、リピトー大尉の迷彩服を見学する来場者たちに向かって、私の息子もそこにいたのです、一緒に死んだのです、息子には十分な名誉が認められていません、と訴え始めていました。アメリカでもイラク戦争戦没者遺族と対面する機会はそう滅多にあるものではなかった当時、来場者たちは神妙な面持ちでディビナさんの訴えに耳を傾けていました。
くわしくは、『歴史経験としてのアメリカ帝国』をご覧いただければ幸いです。
[i] Divina Livaudais. Interview with Satoshi Nakano on Nino Livaudais. Washington, D.C., November 11, 2004.
[ii] 初校で追加。
[iii] “Women Kill 3 Rangers in Suicide Bombing.” Chicago Tribune, April 5, 2003, 1.
[iv] “Nino Livaudais.” http://www.arlingtoncemetery.net/nino-livaudais.htm.
[v] Edmund M. Silvestre. “30 Yrs. Later, Body of Fil-Am Mia Is Found in Vietnam.” Filipino Reporter 29, no. 20 (May 9, 2002).
[vi]Guillermo O. Rumingan. Interview. Washington, D.C., November 25, 2006.
[vii] “Francisco Salveron.” http://www.arlingtoncemetery.net/salveron.htm.
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