プレシャス Precious キネマ旬報2010年5月上旬号40-41頁掲載
『キネマ旬報』2010年5月上旬号に掲載させていただいた原稿を、若干の加除訂正およびウェブ・リンクなどの参考情報を付して公開させていただきます。執筆の機会をいただいた『キネマ旬報』に感謝申し上げます。
キネマ旬報2010年5月上旬号40-41頁掲載
蜘蛛の糸をつかむ「強い個人」たれ、というメッセージに思う事々
16歳の黒人少女プレシャス・クラレンス・ジョーンズは、計算が得意で恵まれた資質をもちながら、読み書きができず、父親にレイプされてふたりの子どもを身ごもり、嫉妬する母親からは執拗に虐待され、過食を強要され、自分が肥満の巨漢であることに強いコンプレックスをもっている。映画『プレシャスPrecious』は、そんな彼女が、オルタナティヴ・スクール(代替学校)での教師ブルー・レインとの出会いをきっかけに、自分の意志で新しい人生を歩み出すまでの道のりを描いている。
この作品は、卓越した教師の力で(多くの場合はマイノリティ貧困層の)子どもたちが才能を開花させるTeachers Moviesのひとつでもある。原作のサファイア著『プッシュPush』(英語版/翻訳)は、プレシャスの拙い作文とレインによる添削・コメントの応酬を通じてリテラシーを獲得する感動を見事に表現した。一方、映画『プレシャス』では、識字問題や教師の存在は後景に退き、インセスト、十代前半での妊娠、DV、福祉手当への依存、肥満・過食、そしてHIV感染症/エイズなど、プレシャスを絶望の淵に追い込む黒人貧困層の生活世界を、映像の力で生々しく描いてゆく。アカデミー賞を受賞した脚本は、原作を忠実に再構成しながら、プレシャスと母親の葛藤にドラマを集約させた。それでは、この映画が伝えたい最大のメッセージは何だろうか?
1987年という時代設定
444 Lenox Avenue
作品の舞台は、全米最大の黒人「ゲットー」のひとつであるニューヨーク市のハーレムだ。時は、1987年。プレシャスが住む古いアパートは132 Streetに近く(原作では444 Lenox Avenueと書かれている)、代替学校のEach One / Teach Oneは、125 Streetの、低層建築が多いハーレムではひときわ目立つ13階建てのホテル・テレサThe Hotel Theresaの上階にあるという設定だ。
Hotel Theresa
映画では、代替学校を初めて訪れるプレシャスが、まるで遠く離れたミッドタウンの雑踏に立ち尽くすかのような場面がある。実際には歩いても10分あまりしかかからない距離だ。それだけ狭い生活世界にプレシャスは閉じ込められていたことが、ここで表現されている。
映画が描く母と娘の葛藤の焦点は、父親をめぐる愛憎とともに、いかに生活の糧を得るかという生存戦略の問題でもある。教育を受けたいプレシャスを、母親は、福祉で生活する邪魔をするなと苛む。自らは無職で、娘と孫娘を被扶養者とすることで貧困家庭に対する児童福祉手当AFDC(Aid to Families with Dependent Children)を受給する母親にとって、一家に教育を受けた稼ぎ手が現れることはむしろ邪魔なのだ。
女たちの葛藤の一方で、この映画で際立つのは、男たちの不在感である。映画のなかでプレシャスとまともに会話を交わす男性は、二人目の子どもの出産時に知り合う、レニー・クラヴィッツが演じる優しい看護士だけだ。しかし、女たちの運命を翻弄しているという点では、物語の影の主人公は、プレシャスの幻視と記憶に曖昧に現れる父親であり、あるいは、父親が象徴する、性暴力を通じてのみ女たちの人生に関わり、何の責任も取らずに漂流する黒人男性たちである。そして映画の大詰めで、まだ3歳の娘に夫が手を出すのを許したときを回想する母親の衝撃の告白は、男たちの言いなりになることが女たちの悲劇を招いていることを物語っている。
この映画の人間像を理解するうえで重要なのが、1987年という時代設定である。1960年代まで、大都市内部Inner Cityにおける黒人の貧困は勤労者の低所得・貧困問題だった。しかし、アメリカ社会の脱産業化や都市構造の変化にともなう雇用の喪失によって、1970年代以降、職なし貧困層Jobless Poorが拡大した。その結果、就業や教育への希望や期待を失った黒人男性の若者たちは犯罪や麻薬に走り、稼ぎ手のいない、福祉手当に依存する家庭とりわけシングル・マザーの世帯が増加した。そこで育つ子供たちも教育から落ちこぼれ、貧困と犯罪を再生産してゆく。こうした貧困の質の変化と構造化が顕在化したのが、ちょうどこの時期である*。そんな状況のもとで、一見、怠惰で気ままに暮らしながら、怒りを内側に溜め込んでゆく黒人の若者たちの意識を見事に描いたのが、ロサンゼルス暴動(1992年)を予言した作品とも言える、スパイク・リー監督の『ドゥー・ザ・ライト・シング』(1989年)である。
*参考文献 ウィリアム・J・ウィルソン(川島正樹・竹本友子訳)『アメリカ大都市の貧困と差別:仕事がなくなるとき』明石書店、1999年
プレシャスは父親のレイプでエイズに感染するが、その意味でも1987年という設定は重要だ。この時期は、HIV感染症/エイズの暗黒時代でもあったからだ。HIV感染症がアメリカ人(25歳~44歳)の死因第1位になるのが、7年後の1994年。有効な治療法が開発・公開されるのも、1995年を待たなければならない。プレシャスは架空の存在だが、その生命はその後高いリスクにさらされたはずである。(HIV/AIDSのアメリカ歴史年表)
人間賛歌か、シニシズムか
それにしても、20年以上前の話なのに、この映画は、ぼんやり観ているとそんな昔の話だとは気がつかないような作りになっている。もちろん、アメリカ人観客の多くは、1987年には廃墟と破れた窓だらけだったハーレムが、1990年代以降、都市美化Gentrificationプロジェクトで多額の資金が流れ込み、表面的には様変わりしたことを知っている。クリントン元大統領がオフィスを構え、地価は急激に上昇し、新築ビルが建ち並び、ホテル・テレサは新しい都市景観のなかに埋没しつつある。そのような変化の一方で、映画が1987年を「遠い過去」として描かないのは、プレシャスの悲劇が過去の問題ではない現実を示している。HIV感染症/エイズの罹患率という点でも、若年層の黒人とりわけ女性は今でも突出して高い状態が続いている(25歳から34歳の黒人女性の死因第1位、白人女性の21倍の死亡リスクがあると言われる)。黒人男性に対して黒人女性が自らを守る強い人間になることが求められていることは、まさに今日の課題なのだ。
男への依存、福祉依存という「黒人貧困層の病」を断ち切り、母親の支配を乗りこえて子供たちのために強く生きようとする主人公プレシャスに応援歌を贈るこの映画は、問題をひとりひとりの自己陶冶の問題として引き受け乗りこえようとする点で、アメリカ的な「強い個人」への信仰を強く感じさせる。そして、個人として強く生きる決意さえあれば、天上から救いの「蜘蛛の糸」(この映画では教師レイン)があなたにも垂れてくると、この映画は語っているように思える。
しかし、もしそれが、制作のオプラ・ウィンフリー、マライア・キャリー(素顔でソーシャル・ワーカーを演じている)あるいはレニー・クラヴィッツのように、マイノリティ出身で「蜘蛛の糸」をつかむことに成功した強い個人であるセレブが参集して作った映画のメッセージなのだとしたら、人間賛歌の一方で、この映画はインナーシティにおける黒人の貧困や犯罪を放置するアメリカ社会の変革には何の希望も持たない、恐ろしくシニカルな作品ではないかとさえ思えてくる。そう言う意味では、プレシャスの幸せを祈りつつ、もっと怒らなければいけない対象が他にあるのではないかというのが、この映画に対する私の率直な「読後感」なのである。(おわり)
『キネマ旬報』寄稿文には書きませんでしたが、『プレシャス』の黒人貧困層の福祉依存や黒人男性の性暴力の描き方については、スピルバーグ監督の『カラー・パープル』(1985)同様に否定的な黒人(男性)像の強調に対して、黒人コミュニティの側からの批判があります。くわしくは下記ニューヨーク・タイムズ記事などを参照してください。http://www.nytimes.com/2009/11/21/movies/21precious.html
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