和解と忘却――戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係の光と影―― (2)忘却への抗議と山崎隆一郎大使の謝罪

(2015年12月27日転載)

(注)本稿は『視覚表象と文化的記憶』所収論文の一部をウェッブ掲載用に改題・改稿したものです

1.対象喪失論と慰霊問題

 (1)で述べてきたように、「慰霊の平和」は、日比関係が敵対から友好へ転換してゆく課程で政府間外交にはできない非公式の外交資産を築いてきた。しかし、より近年の展開は、日比間の「慰霊の平和」に内在する――記憶の抑圧と忘却という――問題点を明らかにしつつある。

まず、慰霊が、記憶を喚起するのではなく、場合によっては抑圧する営みだということを確認しておこう。たとえば、9/11事件で崩壊したワールド・トレード・センターの犠牲者追悼式では、1周年の追悼式以来、最小限の弔辞に続いて、犠牲者の名前を読み上げるだけの簡素な方法が採用されている[1]。事件後1年間にわたって地元ニューヨーク・タイムズは犠牲者の横顔を紹介する特集記事を組み続けたが、そこでは故人生前の思い出が語られる一方、くわしい死の事情は、ほとんど語られていない[2]。遺族や知人あるいは新聞読者などの哀悼者(mourner)は、故人の死の惨状をよく理解しているか、想像できる。その死の悲惨さは、テロや戦争その他の暴力の犠牲者においては、しばしば「語ることができない」程に悲惨である。こうした場合、故人の死をとりまく生々しい記憶や想像を抑圧して、清浄な追悼儀礼で置き換えようとする心理的な防衛機制が働くのは自然なことである。2006年、事件後5年を迎えてハリウッドの映画産業は、ようやく9/11事件を題材にした商業ベースの劇映画の制作・公開に乗り出したが[3]、ギャラップ社世論調査では、9/11事件を題材にした映画制作への賛否両論が全く拮抗している調査結果が示され[4]、哀悼の感情から生々しい事実の暴露に抵抗感をもつ人々がまだ多いことを示した。このように、哀悼の対象について生々しい記憶を抑圧する心理は、個人の場合でも、集合的(社会的)にも、しばしば見出すことができる現象である。

それでは、日比関係におけるように、過去の戦争や植民地支配で敵対し、また全体としては明白な加害と被害の関係(侵略者と被侵略、虐殺や圧政の加害者と被害者など)が見出せる場合、記憶の抑圧をともなう慰霊の営みは、記憶の喚起をともなう「過去との葛藤」――東アジアでは「歴史問題」と呼ばれ、ドイツでは「過去の克服」と呼ばれてきた、過去の確認と共有・償いと和解をめぐる諸問題――と、どのような関係にあると言えるだろうか。「過去との葛藤」は、当事者の一方または双方が抑圧したい過去の想起・確認・保持という作業をともなうので──とりわけ悲劇から経過した時間が浅ければ浅いほど──慰霊の営みの妨げとなり得る。その一方で、はたして「過去との葛藤」を通過しない限り、本当に哀悼者は満足できるのかという疑問も残る。災害や戦争など、ある時期までは思い出したくないと思っていた過去が、時の経過とともに、忘れられてはならない過去として捉え直され、社会的記憶の回復をめざして人々の証言活動が活発になることは、広く見られる現象である。

慰霊と「過去との葛藤」のジレンマは、すぐれて学際的な、少なくとも歴史学と臨床心理学の境界領域の主題である。現代世界における残虐行為や人権蹂躙をめぐる正義・平和・和解の実現を模索する学際的実践としての「移行期の正義(transitional justice)」論でも、犠牲者追悼は不可欠の実践的主題である[5]。とりわけフロイトが1917年に発表した先駆的な論文「悲哀とメランコリー[6]」以来、臨床心理学で主題化され、1960年代にイギリスを中心に発展した対象喪失研究は、戦争・テロや残虐行為といった悲惨な過去と、個人・集団が、どのような心理過程をへて向かい合うかを捉えるうえで重要な示唆を与えてくれる。

「悲哀とメランコリー」でフロイトは、愛する者との死別・生別あるいは「祖国・自由・理想」、過去の生活などより広義の愛着の対象を喪失したときの人間の精神状態を、「正常な悲哀の情」と病的状態としてのメランコリー(重度の鬱状態)に二分して、その心理過程を次のように類型化した。前者の場合、哀悼者は喪失対象をよく理解していて、一連の「悲哀の仕事(work of mourning)」を通じて徐々に対象喪失の現実を受容してゆく。この「悲哀の仕事」には、単に対象を悼むだけでなく、対象に対する憎しみ、悔やみ、償いなどの葛藤を含んだ複雑な心を整理する心理過程が必要だとされる。「悲哀の仕事」は一定の期間をへて終焉し、哀悼者は喪失対象から解放されて新しい愛着の対象を探すことが可能になる。これに対して後者(メランコリー)の場合、「正常な悲哀」とは異なり、喪失の事実を受容できなかったり、喪失大正を自覚できない場合がある。また、喪失対象への執着や愛憎、自責や自己嫌悪の念にいつまでも苛まれる極端な鬱状態の継続に苦しんだり、喪失の事実を拒否するために対象と一体化して、対象を自我の中に作り出したりするなどの「病理」を示す。

フロイトの関心は、当初、病的な精神状態としてのメランコリーに注がれていたので、悲哀は一過性の正常な精神状態として簡潔に考察されたに過ぎなかった。しかし後続の論考では、「悲哀の仕事」が完結しない例があることに注目し、さらに1923年の代表的な論考「自我とエス」のなかでフロイトは自説を修正して、一過性の悲哀と終わらないメランコリーの不可分の要素を認め、「喪失対象を自我の中に再現」するメランコリーの苦悩は「自我形成に重大な貢献をしている」と捉えることで、対象喪失経験を自我形成(発達)の一部として捉える視点を提示した[7]。この論点の延長線上で、対象喪失論は発達論を含んだ臨床心理学の重要な主題となり、1960年代には悲哀の4段階論(情緒危機、抗議、絶望、離脱[8])などが提起された。また心的外傷が認知されるようになると、治療的観点から、「悲哀の仕事」(服喪追悼)を支援する方法論の研究や実践が深められてきた[9]。

対象喪失論が提起する諸問題は、臨床心理学を超えて広く人文・社会科学研究に影響を与え続けている[10]。総じて言えば、治療的観点から「外傷物語が他の記憶と変わるところのない記憶[11]」となるような回復の心理に注目する臨床心理学に対して、人文社会科学研究では、ホロコーストを筆頭とする20世紀の対象喪失経験――残虐行為や民族紛争、人種や性の差別・暴力などの記憶――が、予想外の長期間にわたって政治・社会的影響力を失わない国際社会の現実をふまえて、メランコリーを伴う悲哀の継続性に注目する傾向が強いと言えるだろう[12]。もちろん現代の臨床心理学でも悲哀の心理過程は一方向に段階的に前進して完了するとは考えられておらず、「人々は無理に喪失経験を乗り越えなければいけないわけではなく、むしろ今まで考えられていたのよりもはるかに長く執拗に続く心の葛藤と共に生きることを学ぶ必要がある[13]」とされている。

対象喪失論と20世紀の集合記憶の問題を結びつけた最も重要な研究は、戦後の西ドイツの国民心理を分析した臨床心理学者ミッチェルリッヒ夫妻による『喪われた悲哀』(1967年[14])であろう。著者たちは、ナチス・ドイツ当事者世代のドイツ人が戦後、心理的な防衛機制からナチス第3帝国の過去(とくにホロコーストの問題)との直面を回避して復興・高度成長に専心してきたために、過去について心を整理し、隣国と和解して将来に向けて精神的に前進することができなくなっていると批判した。ミッチェルリッヒは戦後ドイツ人が、このような悲哀の心理過程に入る前に、対象喪失そのものを否認して何事もなかったかのようにふるまう「躁的な防衛(manic defense)」が働いて、「悲哀の仕事」に入れない状態が続いていると分析したのである。同書については臨床心理学からは方法論上の粗雑さを批判され、また1960年代までのドイツ人が過去との直面を回避していたとの指摘にも多くの反証がなされてきた。しかし戦後ドイツの国民心理のおおづかみな分析としては説得力があり、版を重ねて、西ドイツにおける「過去の克服」への取り組みの重要な契機のひとつとなっている[15]。

 

2.「慰霊の平和」が抑圧してきたもの

それでは、日本とフィリピンの戦没者慰霊の営みを対象喪失論から捉えなおすと何が言えるだろうか。

昭和天皇が廃位されず、天皇制も象徴天皇制として存続したがゆえに、哀悼者としての戦後日本人の喪失対象はミッチェルリッヒが戦後ドイツ人の喪失対象として想定したヒトラーやナチス・第3帝国とは異なり、死別した戦没者や戦前の生活(戦前の日本)である。とはいえ、戦後かなりの期間にわたって現実の生活苦や「躁的な防衛」から悲哀を回避する心理が働いたことはドイツと同様であった。

戦勝国側では、戦地に仮埋葬された遺体の回収・改葬や慰霊祭などの追悼事業は、戦争の終結直後から大々的に行われた。フィリピンでも、マニラ市内の旧米軍マッキンレー駐屯地(現フィリピン国軍ボニファシオ駐屯地)内に、日本軍が設営した捕虜収容所の死亡者などの戦没犠牲者を主に埋葬した「共和国墓地」が1947年に開園している。1954年、同墓地は英雄墓地Libingan ng mga Bayaniと改称され、フィリピンの戦没者・退役軍人・要人(政治家、芸術家・科学者などの国民的英雄)のための国立墓地としての機能を果たしている。2003年現在、4万3000名あまりの被葬者のうち3万2000名あまりが日本軍捕虜収容所での死亡者(フィリピン陸軍将兵)とされている[16]。同じマッキンレー駐屯地内に1949年、米軍とフィリピン・スカウツ(植民地期に創設されたフィリピン人兵補部隊)1万7000名余りを改葬した墓地の造営が始まり、1960年に大規模な追悼碑が落成、アメリカ政府管理下の墓園としては海外最大のマニラ・アメリカ墓地(Manila American Cemetery and Memorial)が正式に開園した[17]。慰霊行事も、バタアン・デー(4月8日)、アメリカのメモリアル・デー(5月)などを中心に戦争直後から盛んに行われ、フィリピンの人々にとって戦争を回顧するさまざまの行事は大変に身近な存在だった[18]。

これに対して日本側で慰霊事業が本格化したのは1960年代半ば以降である。1950年代までは遺族年金問題など生活要求を筆頭に挙げていた日本遺族会は、この時期から慰霊問題に急速に傾斜して、1963年から靖国神社の国家護持を要求項目の筆頭に掲げ、64年には「英霊の顕彰」を機関誌『遺族通信』題字下の評語の筆頭にあげ、65年には、政府要求事項に遺骨収集の徹底的実施、戦没者慰霊塔の建立、墓地の整備、戦没者遺族の戦跡巡拝・墓参への協力と助成を盛り込み、66年以降みずから大規模な慰霊巡拝団を組織してフィリピンなどへの戦跡訪問を開始した(日本人の海外旅行は1965年に自由化された)。遺族会の要求に応じて政府は、1972年以降、遺骨収集政府派遣団に「日本遺族会等民間団体」を参加させる道を開き、海外で最初の日本人戦没者慰霊碑を1973年、フィリピンに建立した[19]。このように戦勝国(フィリピン側)と比較して「悲哀の仕事」の開始が遅れた反動で、日本の哀悼者たちは、自責の念や、慰霊の営みに無理解な日本社会を責める気持ちが強く、慰霊行為の貫徹を何よりも優先させる「慰霊至上主義」が強まった。この「遅れ」による影響は、靖国問題を含めて日本における慰霊問題の政治化の背景として見逃せないように思われる。

戦勝国側(米比)の戦没者慰霊は、単に開始時期が早いだけでなく、日本と比較して、慰霊の内容に饒舌さと明瞭さを伴っている。マニラ・アメリカ墓地の追悼碑はその壁面に詳細な戦史を刻み、フィリピン無名戦士の墓に通ずる道路入口の両脇の壁面には「私は彼〔フィリピン人戦没者、著者〕の出生の尊厳を知らない。しかし私は彼の死の栄光を知っている」というダグラス・マッカーサーが1961年にフィリピンを訪問したときの言葉が刻印されている。このように米比の戦没者は、その死を、日本の圧政から民族と民主主義を守り抜いた戦争の英雄として明瞭に位置づけることができる。これに対して日本政府がフィリピン(カリラヤ)に建立した慰霊碑は、「比島戦没者の碑」としか記されていない。全体として日本側の戦没者慰霊碑は、墓石に近く、意味づけを伴わない、寡黙な、あるいは表現の曖昧な碑が多い[20]。これは、正義を主張できない戦争の敗戦国の、加藤典洋の言葉を借りれば「無駄に死んだ」死者たちであること、戦没者が加害者でもあり得たことなど、死者をめぐる、苛酷な、あるいは説明困難な記憶を抑圧する行動として理解できる。アメリカの戦没者追悼碑でも、ワシントンDCのヴェトナム戦争記念碑は、敗北と戦争(反戦運動)の論争的性格を反映して、説明や意味づけを避け、戦没者の名前だけを記銘した寡黙な性格で際立っている。

このように「遅れ」や記憶の抑圧を伴った日本人戦没者の慰霊と比較すると、フィリピン側の戦没者慰霊の営みは、一見、抑圧を伴わない順調な「悲哀の仕事」であったかのようにも見える。しかし現実は全く異なる。ここで重要なのは、戦後フィリピンもまた深刻な対象喪失に苦しむ社会だったという事実である。その最も深刻で象徴的な事例としては、「マニラの死」(1945年2月のマニラ戦による民間人大量殺戮と都市破壊)がもたらした喪失感をあげることができる。日本軍の残虐行為と米軍の爆撃・重砲火による不条理な大量死の記憶に加えて、戦前のマニラに対する深い対象喪失感が、メディアに影響力をもつ知識人・エリート層に根強いこと、しかも遺族の多くが同じ悲劇の生存者でもあったことは、フィリピン側の事情として見逃せない[21]。この事実をふまえて戦後フィリピン社会をふり返ると、ある種の「躁的な防衛」や「悲哀の仕事」の回避、残虐行為の記憶の抑圧などの事例を見出すことは容易である。「民主主義のためのよい戦争」という饒舌で明瞭な戦没者慰霊の言説自体が、抑圧された記憶の空隙を埋める存在であったと捉え直すことさえ可能である。封印しなければならない記憶は、いくらでもあった。それは日本軍の残虐行為に対する被害の記憶にとどまらない。抗日ゲリラ間の抗争から派生したフィリピン社会内部の暴力と殺戮、対日協力者に対する残酷な報復、米軍による「誤爆」や破壊――これらは、フィリピン社会のあいだで広範に共有されている、戦争末期の痛みに満ちた記憶である[22]。

日比間の慰霊の営みをめぐる交流でクリシェとして語られてきた日本側の「お詫び」やフィリピン側の「胸の熱くなる寛容さ」は、以上のような慰霊をめぐる日比双方の心理の内面をふまえて捉えなおす必要がある。「慰霊の平和」は、相互に記憶を抑圧する者同士の接点で成立した友好関係だったとさえ言えるのではないか。戦争被害国で加害国側の戦没者遺族・生還者が戦没者を追悼する営みが可能だったのは、日本人とフィリピン人が、まだ実は回復できていないそれぞれの心的外傷の奥深くに入らないこと、むしろ対話ではなく対話の回避を通じて友誼を取り結ぶことができたからであった。そして、それぞれの被害からの回復のために、記憶の風化は、むしろ彼ら・彼女らの望むところだったのである。

問わなければならないのは、ここで達成された和解の質である。第一に、当事者間では沈黙のうちに共有されている過去も、そのままでは非当事者には継承されない。このことは、本来的に記憶を抑圧する機能を内在させている慰霊の営みとは別の回路で記憶保存や共通了解の創出・維持をめざす営みが伴わない限り、戦争の記憶が継承されないことを示唆している。そして共通了解がないまま抑圧されていた記憶を回復させる圧力が働いたときに、それが敵対感情に短絡して新たな国際摩擦の要因になることは十分に考えられることである。ポスト冷戦期に入ってから世界各地で頻発してきた民族紛争は、冷戦期に抑圧されていた記憶が息を吹き返したとき、どれほど簡単にそれが新たな流血の紛争に発展し得るかを示してきた。現代世界において、記憶の風化は、たんに嘆かわしいのではなく危険なことだという視点が必要である。

第2に、日比間の慰霊の営みが「過去との葛藤」を回避するための記憶の抑圧と対話の回避を伴うものであったとすれば、『喪われた悲哀』の示唆を待つまでもなく、日比間の和解は「悲哀の仕事」という面では不十分ということになる。とりわけ自らが残虐行為の生存者や目撃者であるような被害者(フィリピン)側の犠牲者遺族の場合、ジュディス・ハーマンが「共同体全体がPTSDの症状」を呈するような場合には「回復のためには想起と服喪追悼」が必要であると述べているように[23]、記憶を抑圧する慰霊の営みだけでは「悲哀の仕事」は停滞してしまう。この観点から日本・フィリピンの戦没者慰霊の近年の営みをふり返ると、フィリピンにおける慰霊の営みに深い満足を覚えてきた日本人の側で「悲哀の仕事」がある意味で完成しつつある一方、フィリピン側の戦争被害者のあいだでは達成感を得られていない人々がまだ多いのではないかという印象を受ける。

史上他に例を見ないほどに盛んに展開した日本人戦没者の海外慰霊は、海外戦没者数の多さ、海外旅行の本格化、「悲哀の仕事」の遅れがもたらした慰霊至上主義(高額の旅費を払い海外遠方の僻地を訪れる営みが、慰霊に対する誠意を最もよう表現できる行為であったこと)に加えて、対象喪失論から見ると、愛着の対象が遺骨として海外に取り残されているという観念から、喪失対象を自己の側に取り戻す行為の一環として遺骨収集や現地慰霊が必要だったと解釈することができる。そして、今も巡拝旅行は絶えないものの全体として慰霊の営みが国内回帰の傾向を強め、アジア各地の海外慰霊碑が荒廃しつつある事実は[24]、哀悼者の高齢化とともに、海外慰霊を重ねることによって、喪失対象を自己の側に取り戻すことができた(日本側に引き寄せることができた)という哀悼者たちの達成感の反映としても捉えることができる。これに対してフィリピン側では、「悲哀の仕事」の停滞や遡行がもたらすメランコリーが、忘却に対する抗議として表現され、記憶回復を求める動きをもたらしている。そして北東アジアの「歴史問題」摩擦は、逆説的に、日本と国際社会がフィリピンの戦争被害を忘れ果てている事実を執拗に再確認させられる機会ともなることによって、明らかに、フィリピンの戦争被害者たちの、そしてフィリピン社会のメランコリーを強める契機となっているのである。

 

3.忘却に対する抗議

前節で指摘した忘却の危険な側面が日比関係において初めて表面化したのは、筆者の観察によれば、1994年から1995年にかけて、一連の解放50周年式典がフィリピン各地で挙行されたのを契機に、戦争と日本軍の残虐行為の記憶がよびさまされたときであった。しかし、日本のメディアはこうしたフィリピン側の動きには、ほとんど関心を示さなかった。それから10年が経った2005年、第2次世界大戦後60周年を迎えて、日本側の「フィリピン戦」に関する記憶は、公的記憶という意味では、アムネシアと言える状態にまで忘却が進行した。

日本側のアムネシアから生じた不安定要素は、放置すれば日比関係に影響を及ぼしかねない憂慮すべき状態になりつつある。フィリピン政府は靖国参拝や「歴史問題」に関与しない姿勢をこれまで貫いているが、メディア・世論のレベルでは、①「マニラ戦」追悼式典に対する政府の軽視・無視に対する批判、②フィリピンにおける日本軍の残虐行為が国際的に知られていないことへの不満、③日本側のアムネシアに反発する動きなどが語られるようになっている。「マニラ戦」を中心に記憶の回復に向けた出版活動も盛んで、多数の回想録や記録、研究が出版されてきている[25]。

2005年2月のコラムで、マリア・イサベル・オンピンは、メモラーレ・マニラ1945が主催した追悼式典にフィリピン政府・議会関係者が一人も出席せず、アメリカ大使、EU大使のみの出席であったことを嘆息混じりに記し、過去を記憶し、また思慮深く考察することが「第2次世界大戦の参加に見舞われた世界各地で起こりつつある国際的な目覚め」の一環として重要であると提言して、東アジア「歴史問題」への強い関心を示した[26]。フィリピンの戦禍が国際社会でもまたフィリピンの若い世代でも認知・共有されていないことへの憂慮は、『インクワイアラー(Philippine Daily Inquirer)』はじめフィリピンの大新聞各紙が共有するところで、日本軍の残虐行為と米軍の「友軍の砲火」による戦争末期のマニラや他の地方の破壊について、若い世代を念頭においた特集記事が組まれるようになった。

これらのコラムや記事はおおむね冷静で客観的な内容で、日本への敵対感情を煽るような内容ではなかったが、日本が直接に批判の対象となるような記事が増えてきたことも事実であった。2005年2月には、マニラ戦の「孤児」からの投書として、日比友好月間をマニラ戦の月でもある2月に開催することに反対する投書が有力紙ブレティンに掲載された[27]。有力紙コラムニストのバンビ・L・ハーパーは、2005年11月に発表したコラムで、日本政府は中国や韓国に対しては謝罪しているのに、フィリピンと東南アジア諸国民に対して謝罪をしていないと糾弾した[28]。この認識そのものは誤解に基づいていたが、過去の戦争が問題になるたびに、日本政府・世論の関心が中国と韓国両国にばかり向かいがちである一方、フィリピンや東南アジアが忘れれているという不快感を率直に表現していたのである。

 

4.山崎隆一郎大使の謝罪と哀悼

注目すべきことは、このような危険な兆候に対して、2004年10月に赴任した山崎隆一郎大使が、2005年半ば以降、一連の解放祈念式典へのメッセージなどを通じてある種の「予防外交」を行い、かなりの成果をあげたことである。

前年の60周年式典には参加しなかったレイテ島の米軍上陸記念式典に山崎大使が参加したのは、2005年10月20日のことだった。大使の発言は次の一節を含んでいた。

この岸辺に立ち、私は、日本の軍事侵略の残虐な行為に対してこの国を守るために戦ったすべての人々の悲劇的な運命に対する深い自責と反省の念に心を動かされるのであります。〔”As I stand on this shore, I am moved by a deep sense of remorse and reflections over the tragic fate of all those who have fought to defend this country against the atrocities of Japanese military aggression.”[29]〕  「残虐な行為(atrocities)」という語をフィリピンにおいて日本の政府を代表する者が公式に用いたのは、これがおそらく初めてのことであった。

一方、大使館は、バンビ・ハーパーに対して日本政府の過去の戦争についての公式見解を伝えたのではないかと想像される。年が明けて2006年1月のコラムで、ハーパーは、日比関係の肯定的な側面に言及し、さらに、戦後60周年行事で小泉首相と山崎大使がそれぞれ異なる機会に行った発言を引用して、日本が「東南アジアの人々に対して、植民地支配と侵略による苦痛〔“the misery brought about by Japan’s colonial rule and aggression on the people of Southeast Asia.”[30]〕」に対して謝罪していることを評価した。

マニラ戦61周年にあたる2006年2月のメモラーレ・マニラ1945追悼集会は、日本大使の出席によって、前年の60周年追悼集会よりも重要な意味をもつことになった。この集会で山崎大使は、次のように発言した。

〔戦史研究が明らかにしてきた、著者〕このような歴史的事実を念頭におき、私は、マニラの悲劇的な運命に対して心からの謝罪と深い自責の念を表します。同時に、第2次世界大戦の恐るべき教訓を風化させず、二度と戦争をすることなく世界の平和と反映に貢献するという日本政府の決意を繰り返し表明します。昨年、私は第2次世界大戦終結60周年のほとんどすべての式典に出席いたしました。その全ての機会において、私は献花し、本日と同様の挨拶をさせていただきました。これらの経験すべてにおいて、私は、今日の日本を、民主主義と自由と基本的人権の価値を共有する国としてありのままに評価し、また、両国民間の友好関係を深めてゆく観点から未来志向の姿勢をとる、フィリピン国民の高貴な和解と公平の精神に感銘を受けてまいりました」。〔With this historical fact in mind, I would like to express my heartfelt apologies and deep sense of remorse over the tragic fate of Manila.  Let me also reiterate the Japanese Government’s determination not to allow the lessons of that horrible World War II to erode, and to contribute to the peace and prosperity of the world without ever waging a war.  Last year I participated in virtually all the ceremonies commemorating the 60th anniversary of the end of World War II.  In practically all cases, I was invited to lay a wreath and state my remarks, quite similar to today’s ceremony.  All of this has led me to be impressed by the noble spirit of reconciliation and the sense of fairness on the part of the Filipino people, firstly, in appreciating Japan as we are now, a nation sharing the values of democracy, freedom and respect for basic human rights, and, secondly, for taking a future-oriented attitude with a view to deepening the friendly relations between our two nations.[31]〕

 追悼集会の参列者のひとりでもあったバンビ・ハーパーは、次のように記している。

去る土曜日、山崎隆一郎・日本大使がマニラの悲劇的な運命について謝罪と深い自責の念を表したとき、イントラムーロスのサンタ・イサベル公園(メモラーレ・マニラ1945記念碑がある一角)に集った人々は静まり返ってその言葉を聞いた〔中略〕このホロコーストで母を失ったフアン・ロチャ大使が、(日本人からの)悔恨の言葉がなかったこれまでは赦すことも難しかったのです、と述べたとき、目に涙を浮かべない参会者はいなかった。〔THE SILENCE WAS PALPABLE AT PLAZUELA DE Sta. Isabel last Saturday in Intramuros when Japanese Ambassador Ryuichiro Yamazaki… expressed his apologies and deep sense of remorse over the tragic fate of Manila …There was hardly a dry eye in the audience when Ambassador Juan Rocha, who lost his mother in that holocaust, remarked that it had been difficult to forgive when there was no contrition. Yamazaki’s sincere regrets may go a long way in healing those festering wounds.[32]〕

 これら一連の大使の発言は、フィリピン側の「忘却への抗議」に対して、現地レベルで素早く適切に対応したものであった。従来よりも踏み込んだ表現で謝罪と哀悼を語り、相手国に敬意を払う点で、大使の発言がきわめて効果的だったことは、ハーパーの反応でも明らかである。それは同時に、これまでとは異なり、いかにフィリピン側の戦没者慰霊の営みに日本側が満足を与えることができるかという問題が「慰霊の平和」の焦点になっていることを示しているようにも思われるのである。赴任後、短期間でこうした事情を正確に把握し、効果的に対応するだけでなく、フィリピン側の敬意を獲得することにも成功した山崎大使の見識は高く評価されるべきものである。

しかし、「予防外交」が成功して、日比関係が北東アジア「歴史問題」摩擦を横目に「慰霊の平和」の無風状態を維持しているとはいっても、それはある種の対症療法であって、日本側のアムネシアという根本的な摩擦の要因を除去できたわけではない。ここで注意すべきことは、山崎大使の発言にせよ、中曽根首相や昭和天皇の発言にせよ、日本ではほとんど報道もされずに見過ごされてきたということである。そして、日本政府関係者が、フィリピンに対して謝罪の言葉を重ねている事実が十分に報道されない以上、平均的な日本人は、フィリピンにおける日本軍の戦争犯罪や圧制の事実を知る機会を奪われ続けているのである。

 

5.より質の高い和解のためには何が必要か

 

(1)、(2)を通じて、日比間の「慰霊の平和」の過去と現在をふり返ってきた。その前提として、筆者は、両国民において、より質の高い和解が目指されるべきだという実践的な課題意識を議論の前提としている。「予防外交」を超えて日比間でいま必要とされているのは、一体何であろうか。最後に次の提言を行っておきたい。

第1に、「歴史問題」摩擦で、つねに日・中韓両政府間で解決策のひとつとして提起されている歴史共同研究が、日比間でも「再開」されなければならない。ここで「再開」という言葉を使うのは、すでに過去に共同研究が行われている事実があるからである[33]。今後の共同研究においては、マニラ戦などの残虐行為といった主題が回避されてはならないし、またこれまでの日比学術交流の蓄積や、両国世論の対立感情が醸成されていないことをむしろ好条件と考えるならば、より望ましい冷静な学問的対話を実現できる可能性があると言えるだろう。

第2に、すでに指摘した治癒的・実践的な観点から日比和解の問題に取り組むことが必要なのだとすれば、メモラーレ・マニラ1945や日比間の市民対話をめざしているNPOなどの追悼と和解のプロジェクトに対する、政府等による支援が望まれる。この点は先行事例である、日英和解プロジェクトの成果と問題点をふまえる必要がある[34]。

第3に、上記ふたつのプロジェクトいずれにも、第3の当事者としてアメリカの参加が必須である。「フィリピン戦」におけるアメリカの位置づけはきわめて微妙であるが、日米比3者をまじえた「過去との葛藤」がなされない限り、「フィリピン戦」をめぐる「悲哀の仕事」が終わることはない。

第4に、そしてもっとも重要なことは、日本側において「フィリピン戦」の記憶を回復・維持することである。日比間の和解がもし本物であるとすれば、われわれは、フィリピン側参加者に深い感銘を与えた山崎大使のメモラーレ・マニラ1945追悼式における「心からの謝罪と自責」が、日本国民によって共有されていると自信をもって言えなければならない。ところが現実はそれとは程遠い。やはり、いま必要とされているのは、死者に敬意を払う沈黙よりも、過去について葛藤を含んだ記憶を喚起しあい、騒々しく過去について語り合うことなのではないだろうか。

[1] 12 September 2005, “FOUR YEARS LATER: OVERVIEW; Marking 9/11 While Mourning a Fresher Loss,” New York Times, B4.

[2] ニューヨーク・タイムズ特集記事「悲嘆のポートレート(portraits of grief)」。http://www.nytimes.com/pages/national/portraits/

[3] 乗客とハイジャック犯たちが乱闘の末ペンシルヴェニア州に墜落したユナイテッド93便を描いた、ドキュメンタリー・タッチの作品「ユナイテッド93便」(2006年4月公開)。United 93, http://www.united93movie.com/index.php 制作の背景については以下を参照。24 April 2006, “REPORTER’S NOTEBOOK; Filming Flight 93’s Story, Trying to Define Heroics,” New York Times, E1.

[4] 「あなたはハリウッドが9/11事件の映画を作るのは良いことだと思いますか、悪いことだと思いますか」という質問に対して、良いこと・悪いことともに44パーセントという回答であった(2006年4月6日調査)。26 April 2006, “Public Divided Over Appropriateness of 9/11 Movies.” http://www.gallup.com

[5] 「移行期の正義」国際センター(本部・ニューヨーク)のウェッブ・サイトを参照。 http://www.ictj.org/en/index.html

[6] ジークムント・フロイト(井村恒郎訳)「悲哀とメランコリー」『フロイト著作集第6巻 自我論・不安論』人文書院(1970年)、137~149頁。

[7] ジークムント・フロイト(小此木敬吾訳)「自我とエス」『フロイト著作集第6巻』人文書院(1970年)、263~299頁。フロイトにおける対象喪失論の展開については下記を参照。Tammy Clewell, “Mourning Beyond Melancholia: Freud’s Psychoanalysis of Loss,” Journal of the American Psychoanalytical Association52-1 (Spring 2004): 43-67.

[8] J・ボールビー(黒田実郎他訳)「対象喪失」『母子関係の理論Ⅱ』岩崎学術出版社、一991年。

[9] ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』、273~307頁。

[10] Judith Butler, The Psychic Life of Power: Theories in Subjection. Stanford:Stanford University Press, 1997.

[11] ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』、306頁。

[12] David L. Eng and David Kazanjian (eds.), Loss: The Politics of Mourning.Berkeley : University of California Press, 2003.

[13] Robert Kastenbaum, ed. MacMillan Encyclopedia of Death and Dying, New York : MacMillan Reference USA , 2003, Vol.2, 592-597.

[14] 邦訳・アレクサンダー・ミッチェルリッヒ/マルレーテ・ミッチェルリッヒ(馬場謙一訳)『喪われた悲哀―ファシズムの精神構造―』河出書房新社、1972年。

[15] Anson RabinBach, “Response to Karen Brecht, ‘In the Aftermath of Nazi Germany: Alexander Mitscherlich and Psychoanalysis–Legend and Legacy,’”American Imago 52-3 (1995): 313-328; Frison Wielenga, “An inability to mourn? The German Federal Republic and the Nazi past,” European Review 2-4 (2003): 551-572.石田勇『過去の克服―ヒトラー後のドイツ―』白水社、2002年。

[16] http://corregidorisland.com/bayani/libingan.html

[17] アメリカの第2次世界大戦戦没者の遺体回収・埋葬・墓地建設については下記を参照。Michael Sledge, Soldiers Dead: How We Recover, Identify, Bury, & Honor Our Military Fallen. New York : Columbia University Press, 2005. マニラ・アメリカ墓地は下記を参照。 http://www.abmc.gov/cemeteries/cemeteries/ml_pict.pdf

[18] リカルド・ホセ「私と第2次世界大戦史研究」『岩波講座アジア・太平洋戦争第7巻月報』2006年5月。

[19]中野聡「追悼の政治」、384頁。

[20] 中野聡「追悼の政治」、389~390頁。

[21] 中野聡「フィリピンが見た戦後日本」、43~46頁。

[22] たとえば北部ルソン・イロコス地方では、フェルディナンド・マルコス大統領の父マリアノ・マルコスが抗日ゲリラによって対日協力者として惨殺されただけでなく、抗日ゲリラ間の対立を背景にして、戦争末期に米軍下士官が引率したゲリラ部隊が広範な残虐行為を繰り広げたことが知られている。当事者の証言が出版されたのは、1960年代後半になってからである。Jose L. Llanes, I saw the nation in travail, Manila :AID Magazine, 1967.

[23] ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』、387頁。

[24] 「朽ちる海外慰霊碑」『朝日新聞』2004年7月3日、夕刊、*頁。

[25] 中野聡「フィリピンが見た戦後日本」、53~54頁。

[26] 19 February 2005, Maria Isabel Ongpin, “Ambient Voices,” Today.

[27] 22 February 2005, “Not in February! – IF memory serves, it was in February 1986, during the first…” Manila Bulletin.

[28] 8 November 2005, Bambi L. Harper, “Resentments,” Philippine Daily Inquirer.

[29] 21 October 2005, “JAPANESE ENVOY EXPRESSES REMORSE OVER WW II,” Philippine Daily Inquirer, Section 7.

[30] 25 January 2006, Bambi L. Harper, “That Time of Year,” Philippine Daily Inquirer.

[31] Remarks by H.E. Ambassador Ryuichiro Yamazaki on the occasion of the 61st Anniversary of the Battle for the Liberation of Manila Plazuela de Santa Isabel, Intramuros, Manila , 18 February 2006.

[32] 21 February 2006, Bambi L. Harper, “Closure,” Philippine Daily Inquirer.

[33] 外務省「日比交流史研究支援事業」による国際共同研究・日比交流史研究フォーラム(代表・池端雪浦、副代表・Lydia N. Yu-Jose 1998年~2000年)。

[34] 小菅信子『戦後和解』中公新書、2005年。中尾知代「捕虜はなぜ『和解』に頷けないか─英国捕虜・抑留者問題における齟齬の構図─」『現代思想』28巻13号(2000年11月)、145~169頁。