プレシャス Precious キネマ旬報2010年5月上旬号40-41頁掲載

『キネマ旬報』2010年5月上旬号に掲載させていただいた原稿を、若干の加除訂正およびウェブ・リンクなどの参考情報を付して公開させていただきます。執筆の機会をいただいた『キネマ旬報』に感謝申し上げます。 キネマ旬報2010年5月上旬号40-41頁掲載 蜘蛛の糸をつかむ「強い個人」たれ、というメッセージに思う事々

ゲイ権利運動とアメリカ政治─クロゼット・カミングアウト・アウティング─

ゲイ権利運動とアメリカ政治─クロゼット・カミングアウト・アウティング─

またまたなぜ私が?と思われるかもしれませんが、「現代アメリカ社会においてセクシュアリティが政治化するのはなぜか」という問いを中心に、ゲイ権利運動について論文を執筆する機会をいただきました。 <本文から> エスニシティや性別におけるマイノリティとしての人種・民族集団や女性とは異なり、ゲイは、そのセクシュアリティを内面において自覚した時点でそのことは他者に知られておらず、またそれを秘匿することがひとまず可能であり、自ら暴露すなわちカムアウト(come out)するか、露見しない限り、社会的にはゲイとは見なされない。そして、カムアウトするか、クロゼット(closeted/ the closet自らのセクシュアリティを隠すこと、隠す者たち)であり続けるかは、ミルクの当時も現在も、個人に押しつけられた選択の問題であり続けている。そこで本章では、クロゼットとカミングアウト(カムアウトすること)、そして、近年、ゲイをめぐるアメリカ政治で論争を呼んでいるアウティング(outing クロゼットがゲイであことを社会に暴露すること)の三つの言葉を手がかりとして、現代アメリカ社会においてセクシュアリティが政治化していることの意味を考えてみたい。

『平和と和解の思想をたずねて』

『平和と和解の思想をたずねて』

平和とは何か。和解とは何か。現代の社会科学は何を思考しうるか。新たな思想領域をひらこうとする研究者たちが課題に向き合う──一橋大学社会学研究科「平和と和解の研究センター」関係教員たちによるオムニバス講義から生まれた論集です。中野は戦争の記憶をめぐる日本・フィリピン関係について自らの研究をふり返る論考を書かせていただきました。

アメリカ史研究の現状と課題ー立教大学アメリカン・スタディーズー

なぜ私が・・・の思いもありますが、『立教大学アメリカン・スタディーズ』32号(2010年3月)に講演記録「アメリカ史研究の現状と課題」を掲載させていただきました。 その要旨は、奥村理央さんが次のように大変手際良くまとめてくださいました(『同上』、6頁)。

映画「プレシャス」作品評

16歳の黒人少女プレシャスは、計算が得意で恵まれた資質をもちながら、読み書きができず、父親にレイプされてふたりの子どもを身ごもり、嫉妬する母親からは執拗に虐待され、過食を強要され、自分が肥満の巨漢であることに強いコンプレックスをもっている──映画『プレシャス』は、1987年のハーレムを舞台に、そんな彼女が、オルタナティヴ・スクール(代替学校)での教師ブルー・レインとの出会いをきっかけに、自分の意志で新しい人生を歩み出すまでの道のりを描いています。昨年の映画「ミルク」に引き続き、『キネマ旬報』から作品評を書く機会をいただきました。『キネマ旬報』5月上旬号(1556号)でお読みいただけます。映画「プレシャス」は4月24日公開です。是非ご覧下さい。

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