ゲイ権利運動とアメリカ政治─クロゼット・カミングアウト・アウティング─
またまたなぜ私が?と思われるかもしれませんが、「現代アメリカ社会においてセクシュアリティが政治化するのはなぜか」という問いを中心に、ゲイ権利運動について論文を執筆する機会をいただきました。 <本文から> エスニシティや性別におけるマイノリティとしての人種・民族集団や女性とは異なり、ゲイは、そのセクシュアリティを内面において自覚した時点でそのことは他者に知られておらず、またそれを秘匿することがひとまず可能であり、自ら暴露すなわちカムアウト(come out)するか、露見しない限り、社会的にはゲイとは見なされない。そして、カムアウトするか、クロゼット(closeted/ the closet自らのセクシュアリティを隠すこと、隠す者たち)であり続けるかは、ミルクの当時も現在も、個人に押しつけられた選択の問題であり続けている。そこで本章では、クロゼットとカミングアウト(カムアウトすること)、そして、近年、ゲイをめぐるアメリカ政治で論争を呼んでいるアウティング(outing クロゼットがゲイであことを社会に暴露すること)の三つの言葉を手がかりとして、現代アメリカ社会においてセクシュアリティが政治化していることの意味を考えてみたい。
映画「プレシャス」作品評
16歳の黒人少女プレシャスは、計算が得意で恵まれた資質をもちながら、読み書きができず、父親にレイプされてふたりの子どもを身ごもり、嫉妬する母親からは執拗に虐待され、過食を強要され、自分が肥満の巨漢であることに強いコンプレックスをもっている──映画『プレシャス』は、1987年のハーレムを舞台に、そんな彼女が、オルタナティヴ・スクール(代替学校)での教師ブルー・レインとの出会いをきっかけに、自分の意志で新しい人生を歩み出すまでの道のりを描いています。昨年の映画「ミルク」に引き続き、『キネマ旬報』から作品評を書く機会をいただきました。『キネマ旬報』5月上旬号(1556号)でお読みいただけます。映画「プレシャス」は4月24日公開です。是非ご覧下さい。
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