アロヨ政権打倒運動の経緯
「ペニンスラホテル」騒動で再びフィリピン・アロヨ政権打倒運動と政権側の反政府運動弾圧の攻防劇が注目を集めました。ここでアロヨ政権打倒運動の過去の経緯を整理しておきましょう。
2003年7月27日 300名以上の国軍兵士がマカティ市アヤラ・センターの高級ホテル、オークウッド・プレミエに立てこもり、アロヨ政権の腐敗に抗議。オークウッドの反乱(Oakwood Mutiny)と呼ばれる。首謀者は、Gerardo Gambala陸軍大尉とAntonio Trillanes海軍大尉。事件と裁判を通じてアロヨ政権と軍の不敗を告発したTrillanes大尉はアイドル的な人気を得て、2007年の上院選挙に出馬・当選した。
オークウッド反乱事件を起こした国軍造反派はマグダロMagdalo派と呼ばれるようになった。1896年フィリピン革命のときに革命軍の主導権を握ったカビテCavite州系の派閥がマグダロ派と呼ばれていた故事にちなむ名前。国軍造反派自身は、フィリピン革命の秘密結社カティプーナンKatipunanの団員のことを呼んだ故事にならい「新しいカティプネーロBagong Katipuneros」と自称している。
2006年1月 拘置中のマグダロ派兵士4名が脱走して新人民軍New People’s Armyに保護される。政府はマグダロ派によるテロ計画(国軍士官学校のホームカミングデイでの爆弾テロ)を発見と発表。
2006年2月になると、1986年2月にマルコス政権打倒を実現したピープル・パワー革命(EDSA革命、2月革命とも呼ばれる)の20周年が近づいたことで政治的緊張が高まった。
2006年2月20日 ブラック・アンド・ホワイト・ムーブメント(腐敗政治家のブラックリストを作り、清廉な政治家・団体の選挙を応援するNPO。アロヨ政権は2004年選挙で不正をしたとして、大統領弾劾を求めている)、アクバヤンAkbayan党な どが一連の抗議行動の開始を表明。ジョセフ・エストラーダJoseph Estrada前大統領や、故フェルナンド・ポー・ジュニアFernando Poe Jr.大統領候補の支持団体も2月24日の抗議行動への参加を表明。マラカニアン宮殿(大統領官邸)付近で爆弾事件。マカティでも爆弾が爆発して3歳の少 女が負傷。ケソン市でも爆弾が発見される。
2006年2月21日 マグダロ派将校で脱走していたローレンス・サンファンLawrence San Juan中尉がバタンガス州で新人民軍関係者とともに逮捕される。マグダロ派と新人民軍の共謀を示す文書も押収されたと発表される。
2006 年2月22日 コラソン・アキノCorazon Aquino元大統領、貧困層の支持者が数百万人に達すると言われるカトリック系宗教団体エル・シャダイEl Shaddaiの指導者マイク・ベラルデMike Velarde、マカティ・ビジネス・クラブと反アロヨ団体がハイアット・ホテルで会合。
2006年2月23日 国軍がクーデター容疑で14名の下士官を逮捕。警察特殊部隊の一部が反政府側に着いたという情報を政府が掌握。
2006 年2月23日 アロヨ大統領「非常事態宣言」を布告。論客の政治学者ランディ・ダビッドRandy Davidフィリピン大学教授、アクバヤン党代表ロナルド・ラマスRonald Llamas、アルゲ・ゲバラArgee Guevarra弁護士がデモ行進中に逮捕され、一時拘留される。
2006年2月25日 警察、国軍がDaily TribuneやABS-CBNなど新聞TV各局を捜索、警戒下におく。「非常事態宣言」下において政府の指示に従わない場合は強制措置をとると警告。
2006 年2月26日 ボニファシオ基地の海兵隊司令部をアリエル・クエルビンAriel Querubin海兵隊大佐が占拠して、海兵隊司令官レナト・ミランダRenato Miranda少将の解任に抗議、ピープル・パワーを呼びかける。ネルソン・アラガNelson Allaga准将が海兵隊の指揮をとると宣言して、海兵隊員は兵舎に戻る。
2006年2月27日 デイリー・トリビューン社が最高裁に非常事態宣言の無効を求める訴え。パーティー・リスト政党下院議員4名が自宅軟禁される。
2006年3月3日 アロヨ大統領、「非常事態」の終了を宣言。警察がデイリー・トリビューン社から引き揚げ。
2006年4月5日 「グロリア辞職せよ運動」を上院少数党リーダー、アキリノ・ピメンテルJr.Aquilino Pimentel Jr.が開始宣言。上院議長(当時)フランク・ドリロンFrank Drillonほか3名の上院議員も支持を表明。
2006年6月25日 オリバー・ロザノOliver Lozano弁護士が提出した大統領弾劾提案から1年が経過して、第2次の弾劾案が下院に提出される(弾劾案は1年間の間隔をおかなければならないことが憲法で定められている)。79票差で否決。
2007年10月5日 ロベルト・プリドRoberto Pulido弁護士が第3次の弾劾案を提出。故意に不十分な書式・内容(3ページ)の弾劾案を(政府側が)提出させたという批判が出る。
2007年11月27日 下院が弾劾案を否決(184対1)。
出典:おもに下記のタイムラインからとりました。
http://www.abs-cbnnews.com/images/news/microsites/coup07/timeline.html
Recent Comments