アーリントン国立墓地とフィリピン(4)「バランギガ」

アーリントン国立墓地とフィリピン(4)「バランギガ」

James Franklin Bell (1856-1919), Section 3, and Littleton Waller (1856-1926), Section 4

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アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る)

タフト総督の就任後、米比戦争が全体として「平定」の方向に向かったとはいえ、各地で抵抗は続き、米軍はしばしば軍事力によって「平定」を強行していきました。そのようななか、米比戦争史上もっとも悲惨で論争的な戦場になったのが、ビサヤ諸島東部のサマール島とマニラ南方のバタンガス州でした(地図参照)。

マッキンレー大統領暗殺の衝撃が全米を震撼させてまもない9月28日、サマール島南端の町バランギガで、米軍駐屯部隊が、地元住民を組織した革命軍エウゲニオ・ダーサ中佐の率いるゲリラに急襲されて壊滅的打撃を受け、四八名が殺害される事件が発生します。単独の戦いとしては米軍側で最大の犠牲者数を出したこの事件は「バランギガの虐殺」として報道されました。報復に燃える米軍は、ウンデッド・ニー虐殺事件(1890年)にも関与したインディアン戦争のベテランであるジェイコブ・スミス准将の指揮のもと、陸軍とリトルトン・ウォーラー少佐の率いる海兵隊部隊がゲリラ掃討作戦を開始します[i]

Editorial_cartoon_about_Jacob_Smith's_retaliation_for_Balangigaこの掃討作戦の過程で、1902年1月、ウォーラー指揮下の海兵隊がサマール島西南岸の町バセイで非戦闘員を大量処刑するなど、数々の残虐行為が発生しました。同年3月、事件は軍法会議にもちこまれ、裁判でウォーラーは、スミス准将が一〇歳以上の男子はみな戦闘員とみなして「殺し、焼き払い、捕虜は取らず、サマール島内を『人気のない荒野howling wilderness』にせよ」と口頭で命令したと主張しました(写真はNew York Evening Journal 1902年5月5日号に掲載されたEditorial Cartoon / Wikipedia)。このセンセーショナルな証言は全米各紙に報道され、戦争批判の世論が強まります[ii]。1902年2月、ビセンテ・ルクバン将軍が逮捕されて同島での抵抗は終息に向かいますが、残虐行為の記憶はその後も尾を引くことになります。

一方、マニラに近いバタンガス州は、地元出身のミグエル・マルバール将軍の優れた指導力のもとで、正規革命軍としては、ほとんど最後の抵抗拠点となりました。これに対して米軍は、ジェイムズ・フランクリン・ベル准将の指揮のもと、1901年11月以降、ゲリラと住民を分断する「再集住」政策を徹底して大規模に実施します。これはかつてスペインがキューバで強行してアメリカの反スペイン世論が高まるきっかけになったゲリラ弾圧策そのもので、米軍がフィリピンで同様の作戦を強行したことには批判の声もあがりました。これに対してベルは、「和平派(のフィリピーノ)はこれまで幾度も機会を与えられて、米軍の検問の通過も許されてきたのに、反乱を支援する目的だと後で分かったこともしばしばだった・・・最良の和平の手段は、反乱を完全に制圧するまで苛烈な戦闘を続けることだ」と反論し、革命軍と米軍占領地域の往来を遮断する再集住政策の正当性を主張しました[iii]。さらにベルは、南北戦争時の1863年に布告された軍務局一般命令100号を適用して、軍法を遵守しない敵(ゲリラ)は捕虜として処遇せず現場で処刑することを認めました[iv]。再集住政策の強行は、コレラなど感染症の流行と水牛(カラバオ)の大量死など生活基盤の崩壊による深刻な住民被害をもたしましたが、対ゲリラ作戦としては成功します。マルバールは抵抗を断念し、1902年4月、整然と降伏します[v]。こうして、アギナルドが任命した革命軍司令官に率いられた各地の戦争は、ほぼ終結し、このあと7月4日の米独立記念日にセオドア・ローズベルトはフィリピン諸島の「平定」を宣言することになります。

wallerbell軍法会議でサマール島残虐行為の上官責任を問われたスミスは強制退役に追い込まれます。かたや上官に責任を押し付けたウォーラーは無罪となり、1915年にはハイチ侵攻部隊の指揮を取り、海兵隊指揮官として勇名を馳せることになります。現代の戦史家リンは、米比戦争におけるウォーラーの海兵隊指揮の無謀さを批判するとともに、スミスの発言についての軍法会議でのウォーラーの証言については偽証の可能性を指摘しています[vi]。強硬策でバタンガス「平定」を成功させてタフト総督を喜ばせたベルは、順調に栄達の道を歩みました。その一方、タフトとマッカーサーの摩擦は戦後にも尾を引き、1906年、空席になった陸軍参謀長職に、当時陸軍長官だったタフトは、順当に行けば最有力候補であったマッカーサー中将を退けてベル少将を充てました。こうして出世街道で明暗を分けたスミス、ウォーラー、ベルでしたが、今は、もろともにアーリントン国立墓地に眠っています[vii]

[i]バランギガ事件およびサマール戦争についてはそれぞれ下記の研究が新しい。Roland O. Borrinaga. The Balangiga Conflict Revisited. Quezon City: New Day Publishers, 2003; Linn. The Philippine War, 1899-1902, 306-321.

[ii] Linn. The Philippine War, 1899-1902, 316-318.

[iii] “Filipino Being Hard Pressed by Gen. Bell.” New York Times, June 6, 1902, 3.

[iv] General Order No.100, Adjutant General’s Office, 1863. In Blount. The American Occupation of the Philippines, 1898-1912, 387-388.

[v] バタンガス戦争に関しては以下を参照。Glenn Anthony May. Battle for Batangas: A Philippine Province at War. New Haven: Yale University Press, 1991; Reynaldo C. Ileto. Knowing America’s Colony: A Hundred Years from the Philippine War. Honolulu: University of Hawai’i at Manoa, 1999, 19-40; Linn. The Philippine War, 1899-1902, 295-305.

[vi] Linn. The Philippine War, 1899-1902, 315-319.

[vii] スミス(Section SW)、ウォーラー(Section 4)、ベル(Section 3)。いずれも墓誌は下記を参照。http://www.arlingtoncemtery.net