清水知久・高橋章・富田虎男『アメリカ史研究入門』

『歴史評論』2020年4月号の「特集:西洋近現代史の「新しい古典」を読む」に寄稿させていただきました。1974年初版の清水知久・高橋章・富田虎男『アメリカ史研究入門』(山川出版社)をめぐって、当時のアメリカ史研究をめぐる時代状況を検討しました。

アーリントン国立墓地とフィリピン(6)アーリントンに眠るフィリピーノたち

アーリントン国立墓地とフィリピン(6)アーリントンに眠るフィリピーノたち

Francisco Salveron (1910-1998), Section 43 アーリントン国立墓地の「ツァー」も、そろそろ締めくくりです。最初は英雄を殺す反乱者として、次いで恭順する半裸の「原住民」として登場したフィリピーノたちは、やがて、アーリントンに葬られる立場になっていきます。もちろんアーリントンに葬られるのは、原則としてアメリカ人です。しかし、アメリカ植民地期(1898-1946年)を通じてフィリピーノには合衆国市民権は付与されず、またそのほとんどの期間を通じて、アメリカの国籍法上は日系や中国系など他のアジア系移民と同様の帰化不能外国人として、市民権取得(帰化)の権利を与えられませんでした。ケソン(Tour-1)はあくまで外国要人として例外的に仮埋葬されたに過ぎません。アメリカ人として葬られるフィリピーノが現れるのは、市民権をもつ移民二世や、特例帰化権を行使した第二次世界大戦従軍者からとなります。地図に青いピンで示したのが、それらの人々の墓です。 アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る)

アーリントン国立墓地とフィリピン(5)米陸軍人たちとフィリピン

アーリントン国立墓地とフィリピン(5)米陸軍人たちとフィリピン

John J. Pershing (1860-1948), Section 34, Leonard Wood (1860-1927), Section 21, George C. Marshall (1880-1959), Section 7 and Jonathan Wainwright (1883-1953), Section 1. 「平定」後も長く「反乱」が続いたがゆえに、フィリピンは米軍とくに陸軍にとって――1890年に終結した「インディアン戦争」にかわる――重要な赴任先・訓練場であり続けます。その歴史もアーリントンには刻まれています。アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る)

アーリントン国立墓地とフィリピン(4)「バランギガ」

アーリントン国立墓地とフィリピン(4)「バランギガ」

James Franklin Bell (1856-1919), Section 3, and Littleton Waller (1856-1926), Section 4 アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る) タフト総督の就任後、米比戦争が全体として「平定」の方向に向かったとはいえ、各地で抵抗は続き、米軍はしばしば軍事力によって「平定」を強行していきました。そのようななか、米比戦争史上もっとも悲惨で論争的な戦場になったのが、ビサヤ諸島東部のサマール島とマニラ南方のバタンガス州でした(地図参照)。

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