アーリントン国立墓地とフィリピン(はじめに・目次)
(2004年11月11日、アーリントン国立墓地60区画) ポトマック川をはさんでワシントンDCの南西に位置するアーリントン国立墓地は、南北戦争の南軍司令官ロバート・E・リーの居宅があったプランテーションを報復的に接収した丘陵地を中心とする約650エーカーの広大な墓苑に、30万人を超える米軍戦没者、ベテランとその家族、ジョン・F・ケネディ大統領やスペース・シャトル事故の犠牲者などが葬られています。アメリカが戦ってきた数々の戦争に関わるメモリアル(慰霊碑)も建てられていて、毎年400万人近くが訪れるとされています[i]。そしてここアーリントン国立墓地には、フィリピンをめぐる征服戦争と植民地の過去が刻まれています。その広大な墓苑から、歴史を刻んできた幾つかの記念碑・墓標を紹介します。(授業資料作りのついでに、過去の著作の一部をウェブ用に再編しました)。 アーリントン国立墓地のあらまし(動画・約5分) アーリントン国立墓地とフィリピン(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 [i] アーリントン国立墓地の歴史・概要についてはJames Edward Peters. Arlington National Cemetery, Shrine to America’s Heroes. Bethesda, MD: Woodbine House, 2000.公式のウェブサイトは http://www.arlingtoncemetery.org/. このほかに下記の個人が運営するサイトは被葬者の墓誌が充実している。http://www.arlingtoncemetery.net/.
アーリントン国立墓地とフィリピン(6)アーリントンに眠るフィリピーノたち
Francisco Salveron (1910-1998), Section 43 アーリントン国立墓地の「ツァー」も、そろそろ締めくくりです。最初は英雄を殺す反乱者として、次いで恭順する半裸の「原住民」として登場したフィリピーノたちは、やがて、アーリントンに葬られる立場になっていきます。もちろんアーリントンに葬られるのは、原則としてアメリカ人です。しかし、アメリカ植民地期(1898-1946年)を通じてフィリピーノには合衆国市民権は付与されず、またそのほとんどの期間を通じて、アメリカの国籍法上は日系や中国系など他のアジア系移民と同様の帰化不能外国人として、市民権取得(帰化)の権利を与えられませんでした。ケソン(Tour-1)はあくまで外国要人として例外的に仮埋葬されたに過ぎません。アメリカ人として葬られるフィリピーノが現れるのは、市民権をもつ移民二世や、特例帰化権を行使した第二次世界大戦従軍者からとなります。地図に青いピンで示したのが、それらの人々の墓です。 アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る)
アーリントン国立墓地とフィリピン(5)米陸軍人たちとフィリピン
John J. Pershing (1860-1948), Section 34, Leonard Wood (1860-1927), Section 21, George C. Marshall (1880-1959), Section 7 and Jonathan Wainwright (1883-1953), Section 1. 「平定」後も長く「反乱」が続いたがゆえに、フィリピンは米軍とくに陸軍にとって――1890年に終結した「インディアン戦争」にかわる――重要な赴任先・訓練場であり続けます。その歴史もアーリントンには刻まれています。アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る)
アーリントン国立墓地とフィリピン(4)「バランギガ」
James Franklin Bell (1856-1919), Section 3, and Littleton Waller (1856-1926), Section 4 アーリントン国立墓地とフィリピン・マップ(ゆかりのアメリカ人たちの墓碑を赤いピンで、フィリピーノたちの墓碑を青いピンで表示しています)。 (目次に戻る) タフト総督の就任後、米比戦争が全体として「平定」の方向に向かったとはいえ、各地で抵抗は続き、米軍はしばしば軍事力によって「平定」を強行していきました。そのようななか、米比戦争史上もっとも悲惨で論争的な戦場になったのが、ビサヤ諸島東部のサマール島とマニラ南方のバタンガス州でした(地図参照)。
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